第055話:朱塗りの椀、三百年剥げない漆
一本杉通りを少し進んだ先に、黒漆喰の土蔵造りの店を構える老舗の漆器店があった。
格子戸を開けると、乾いたヒバ(あて)の木の香りと、天然漆の独特の芳香が漂っていた。
「ちょっと付き合いなさい」
真弓に促され、美咲は畳敷きの小上がりに腰を下ろした。
店主の初老の男性が、奥の桐箪笥から、真新しい桐の小箱を恭しく運んできた。
箱の蓋を開けた瞬間、美咲は思わず息を呑んだ。
「……綺麗……」
そこに収められていたのは、見事な一対の夫婦椀だった。
一つは、吸い込まれるような深い漆黒。
そしてもう一つは、朝焼けの光を宿したような、深く艶やかな茜朱色。
一切の金蒔絵も飾りもない。ただ、木地と漆の美しさだけで勝負する、極限まで無駄を削ぎ落とした端正な汁椀だった。
「お持ちになってごらんなさい」
店主に勧められ、美咲は茜色の椀を両手で包み込んだ。
「……あ、軽い……それに、温かい」
手のひらに吸い付くような、人肌に近い滑らかな質感。
プラスチックや陶器の器にはない、木と漆だけが持つ、命の温もりだった。
「輪島塗の椀だよ」
店主が優しく微笑んだ。
「能登のケヤキの木を削り、寒冷紗という布を漆で貼り付けて補強し、能登の珪藻土を焼いて砕いた『地の粉』を混ぜて、下地を何層も塗り重ねる。上塗りまで含めると、完成までに百二十以上の工程と、丸々一年以上の時間がかかるんだ」
店主は自分の使い古した朱塗りの椀を美咲に見せた。角が少し擦れ、下地の黒がうっすらと覗いているが、それがかえって深い味わいとなっていた。
「漆ってのはね、不思議な生き物なんだよ。日光には弱いが、空気中の水分を吸って、年月が経つほどに硬く、強くなっていく。百年使っても、二百年使っても、決して剥げない。割れたり欠けたりしても、塗り直せばまた元通りに蘇る。……家族の絆と同じだよ」
「……お母さん、これ……」
美咲が振り返ると、真弓は少し照れくさそうに視線を泳がせた。
「半年前……あんたが『結婚することになった』って電話してきた日に、ここに電話して誂えてもらったんよ」
「半年前から……!?」
「そうや。あんた、東京で一人暮らし始めてから、朝ご飯もロクに食べんと仕事ばっかりしとったやろ。……新しいお家に行ったら、毎朝、このお椀でお味噌汁作って、旦那さんと二人で笑ってご飯食べてほしいと思ってな」
真弓は美咲の手の中の朱塗りの椀を、そっと撫でた。
「口うるさく言って、悪かったね。カタログギフトが悪いわけやないんよ。ただ……私は、あんたに『三百年剥げない本物の温もり』を持って嫁いでほしかったんや……」
――美咲の目から、ぽたりと涙がこぼれ落ち、朱塗りの椀の底で小さな波紋を作った。
引き出物のことで母と衝突した夜、自分は母を「時代遅れの頑固者」だと罵った。
けれど、母の胸の中にあったのは、娘が新しい家庭でずっと温かいご飯を食べ、幸せに暮らしてほしいという、ただそれだけの、純白の祈りだったのだ。
「お母さん……ありがとう。大切にする……一生、大切にするからね」
美咲は朱塗りの椀を、胸の前でぎゅっと抱きしめた。
花嫁は座敷の陰で、静かに目を細め、胸元の水引の簪をそっと揺らしていた。




