↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
55/214

第055話:朱塗りの椀、三百年剥げない漆

一本杉通りを少し進んだ先に、黒漆喰の土蔵造りの店を構える老舗の漆器店があった。

 格子戸を開けると、乾いたヒバ(あて)の木の香りと、天然漆の独特の芳香が漂っていた。

「ちょっと付き合いなさい」

 真弓に促され、美咲は畳敷きの小上がりに腰を下ろした。


 店主の初老の男性が、奥の桐箪笥から、真新しい桐の小箱を恭しく運んできた。

 箱の蓋を開けた瞬間、美咲は思わず息を呑んだ。


「……綺麗……」


 そこに収められていたのは、見事な一対の夫婦椀(めおとわん)だった。

 一つは、吸い込まれるような深い漆黒。

 そしてもう一つは、朝焼けの光を宿したような、深く艶やかな茜朱(あかねしゅ)色。

 一切の金蒔絵も飾りもない。ただ、木地と漆の美しさだけで勝負する、極限まで無駄を削ぎ落とした端正な汁椀だった。


「お持ちになってごらんなさい」

 店主に勧められ、美咲は茜色の椀を両手で包み込んだ。


「……あ、軽い……それに、温かい」

 手のひらに吸い付くような、人肌に近い滑らかな質感。

 プラスチックや陶器の器にはない、木と漆だけが持つ、命の温もりだった。


「輪島塗(わじまぬり)の椀だよ」

 店主が優しく微笑んだ。

「能登のケヤキの木を削り、寒冷紗(かんれいしゃ)という布を漆で貼り付けて補強し、能登の珪藻土を焼いて砕いた『地の粉(じのこ)』を混ぜて、下地を何層も塗り重ねる。上塗りまで含めると、完成までに百二十以上の工程と、丸々一年以上の時間がかかるんだ」


 店主は自分の使い古した朱塗りの椀を美咲に見せた。角が少し擦れ、下地の黒がうっすらと覗いているが、それがかえって深い味わいとなっていた。

「漆ってのはね、不思議な生き物なんだよ。日光には弱いが、空気中の水分を吸って、年月が経つほどに硬く、強くなっていく。百年使っても、二百年使っても、決して剥げない。割れたり欠けたりしても、塗り直せばまた元通りに蘇る。……家族の絆と同じだよ」


「……お母さん、これ……」

 美咲が振り返ると、真弓は少し照れくさそうに視線を泳がせた。


「半年前……あんたが『結婚することになった』って電話してきた日に、ここに電話して誂えてもらったんよ」

「半年前から……!?」

「そうや。あんた、東京で一人暮らし始めてから、朝ご飯もロクに食べんと仕事ばっかりしとったやろ。……新しいお家に行ったら、毎朝、このお椀でお味噌汁作って、旦那さんと二人で笑ってご飯食べてほしいと思ってな」


 真弓は美咲の手の中の朱塗りの椀を、そっと撫でた。

「口うるさく言って、悪かったね。カタログギフトが悪いわけやないんよ。ただ……私は、あんたに『三百年剥げない本物の温もり』を持って嫁いでほしかったんや……」


 ――美咲の目から、ぽたりと涙がこぼれ落ち、朱塗りの椀の底で小さな波紋を作った。

 引き出物のことで母と衝突した夜、自分は母を「時代遅れの頑固者」だと罵った。

 けれど、母の胸の中にあったのは、娘が新しい家庭でずっと温かいご飯を食べ、幸せに暮らしてほしいという、ただそれだけの、純白の祈りだったのだ。


「お母さん……ありがとう。大切にする……一生、大切にするからね」

 美咲は朱塗りの椀を、胸の前でぎゅっと抱きしめた。

 花嫁は座敷の陰で、静かに目を細め、胸元の水引の簪をそっと揺らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。