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第054話:一本杉通りの老舗、母の生まれ故郷

羽咋から再び列車に乗り、能登半島の中心都市・七尾(ななお)駅に降り立った。

 改札を出ると、潮の香りと、どこか懐かしい薪の煙の匂いが漂っていた。

「お母様の生まれ育った町へ、ご挨拶にまいりましょう」

 花嫁に案内され、駅から歩くこと十分。二人が辿り着いたのは、御祓川(みそぎがわ)沿いに続く、六百年以上の歴史を持つ商人の町――『一本杉(いっぽんすぎ)通り』だった。


 石畳の道の両側には、明治や大正の面影を色濃く残す、重厚な町家が建ち並んでいる。

 和ろうそくの店、昆布の老舗、地酒の蔵元、そして醤油蔵。

 通りを歩く真弓の足取りが、自然とゆっくりになった。建物の格子戸や看板を、愛おしそうに一つひとつ見つめている。


「……変わらんなあ。あの昆布屋さんの看板、私が子供の頃のまんまやわ」

 真弓が足を止めたのは、軒先に大きな杉樽が並ぶ、創業百十年の昆布問屋の前だった。

 店先から、前掛けを締めた白髪の老婦人が顔を出した。

 真弓の顔を見るなり、老婦人は目を丸くし、両手を叩いた。


「……あれまあ! 真弓ちゃんやないけ! 何年ぶりね!」

「トシ子小母(おば)ちゃん! 元気やったん?」

 真弓が駆け寄る。二人は手を取り合って再会を喜んだ。

「元気も何も、もう八十過ぎたわいね! ……おや、そのお隣のべっぴんさんは……もしかして美咲ちゃんかい!?」

「あ、初めまして……神谷美咲です」

 美咲が頭を下げると、トシ子小母ちゃんは美咲の両手を強く握りしめ、目を潤ませた。


「ほうけ、ほうけ……! こんなに立派になって……! 東京で結婚するんやってねぇ。おめでとう、本当におめでとう!」

「ありがとうございます……」

「真弓ちゃん、よかったねぇ。あんたの苦労が、ようやく実を結んだねぇ……」


 トシ子小母ちゃんは、美咲の顔をしみじみと見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「美咲ちゃん。あんたがまだ小さかった頃、お父さんが急に亡くなってね。親戚中が『能登の実家に戻ってきなさい』『いい人がおるから再婚しなさい』って、真弓ちゃんを説得したんよ」

「え……?」

 美咲は息を呑んだ。そんな話、一度も聞いたことがなかった。


「でもね、真弓ちゃんは絶対に首を縦に振らんかった」

 トシ子小母ちゃんは、真弓の背中を優しく撫でた。

『美咲は東京で生まれた子や。あの子の未来の可能性を、私の都合で狭めたくない。私が一人で、何十万本でもミシンを踏んで、あの子を大学まで行かせるんや』ってねぇ。……手にあかぎれ作って、夜中まで縫製の内職して、泣き言一つ言わんとあんたを育て上げたんよ」


 ――美咲の喉の奥が、熱く詰まった。

 隣に立つ母を見つめる。

 真弓は照れくさそうに顔を背け、「もう昔のことや、小母ちゃん、恥ずかしいわ」と笑っていた。


 知らなかった。

 母がどれほどの孤独と戦い、どれほどの犠牲を払って、自分という一人の人間を守り抜いてくれたのかを。

 母の小言も、過剰な干渉も……すべては、「この子だけは絶対に不自由させない、幸せにするんだ」という、命がけの執念の裏返しだったのだ。


「お母さん……」

 美咲の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 一本杉通りの冷たい風が、二人の間を優しく吹き抜けていった。

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