第052話:治部煮のぬくもり、鴨肉と加賀蓮根
列車が河北潟の干拓地を抜ける頃、花嫁が両手に抱えてきたのは、金箔が施された朱塗りの二段重だった。
「車内でお出ししております、加賀の郷土懐石でございます。冷めないうちにお召し上がりくださいまし」
重箱の蓋を開けた瞬間、ふわりと立ち上った湯気とともに、甘辛い醤油と出汁の芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。
一の重の中央に美しく盛り付けられていたのは、加賀百万石の武家料理を代表する一品――**『治部煮』**だった。
「わあ……美味しそう」
美咲は思わず目を輝かせた。
とろみのついた黄金色の出汁の中に、小麦粉を軽くまぶして煮含められた合鴨の肉、金沢特産の「すだれ麩(生麩)」、冬の寒さで甘みを増した加賀蓮根、原木椎茸、そして青々とした春菊が端正に並んでいる。器の縁には、ツンと角の立った鮮やかな練りワサビが添えられていた。
「鴨肉に粉をまぶして火を通すことでね、肉の旨味を中に閉じ込め、同時に出汁にとろみをつけるのが治部煮の知恵でございますよ。ワサビを出汁に少し溶かしてどうぞ」
花嫁に勧められ、美咲は箸で鴨肉を一口運んだ。
「……っ!」
噛み締めた瞬間、舌の上でとろみ出汁が広がり、続いて鴨肉の野趣あふれるジューシーな肉汁がジュワッと溢れ出した。
驚くほど肉が柔らかい。粉の衣が出汁をたっぷり吸い込み、噛むほどに旨味が深まる。
そこに、溶かしたワサビの清涼な辛味が鼻を抜け、濃厚な出汁の後味をキリリと引き締めていた。
続いて、蛇腹のような美しい縞模様が入った「すだれ麩」を口に入れる。
モチモチとした弾力のある生麩が、スポンジのように出汁を蓄えており、噛むたびにジュワジュワと出汁が溢れ出す。加賀蓮根はシャキシャキとした歯ごたえの中に、強いデンプンの粘り気があり、大地の甘みが際立っていた。
「……懐かしいねえ」
向かいの席で、真弓がすだれ麩を箸でつつきながら、遠い目をしていた。
「美咲、あんた小さい頃、このすだれ麩ばっかりねだって食べとったんよ。お肉よりもお麩が好きで、『お母ちゃん、モチモチちょうだい』って」
「……え? 私、そんなこと言ってた?」
「覚えとらんの? あんたが五歳のときにお父ちゃんが亡くなって……家計が苦しくて、滅多に贅沢なんてさせられへんかったけどな。あんたの誕生日だけは、毎年すだれ麩と鴨肉買うてきて、治部煮作ったんや」
真弓は箸を止め、小さく微笑んだ。
「あんたが『世界一美味しい!』言うて、お皿まで舐めるように食べてくれるのが……あの頃の私の、唯一の生きがいやったんよ」
――美咲の心臓が、ドキンと跳ねた。
すだれ麩を噛み締める口が止まった。
忘れていた。
母はずっと厳しくて、口うるさくて、自分を縛り付ける存在だと思い込んでいた。
けれど、父を亡くし、女手一つで必死に洋裁の針を動かしながら、自分を笑顔にするために作ってくれていたあの治部煮の味。
母の愛は、言葉ではなく、毎日の食卓の中に、確かに注ぎ込まれ続けていたのだ。
「……お母さん」
美咲が呼びかけると、真弓は照れくさそうに「冷めんうちに食べなさい」と治部煮を口に運んだ。
とろみのある温かい出汁が、母娘の冷え切っていた心を、少しずつ、少しずつ溶かしていっていた。




