第050話:鼓門の下、重なり合わない傘
金沢駅の東口――「もてなしドーム」と呼ばれる巨大なガラスの天井から、淡雪の混じる冷たい雨が斜めに吹き込んできていた。
木造の巨大な「鼓門」の下。
神谷美咲、二十九歳。
濡れた石畳の上で、折りたたみ傘の柄をぎゅっと握りしめたまま、五歩ほど先を歩く母の背中を見つめていた。
母・真弓、五十八歳。
黒いウールのコートの襟をかき合わせ、小刻みに震えながらも、決して美咲の方を振り返ろうとはしなかった。
「……お母さん、傘、入ったら?」
美咲が声を絞り出したが、真弓は前を向いたまま、冷ややかに言い放った。
「ええわ。あんたの傘、小さすぎるから。私の服まで濡れてまう」
「……またそうやって、トゲのある言い方する」
「事実を言うとるだけやないの。いつもそう。あんたは自分の都合でしか物事を考えられへん」
胸の奥がキリキリと痛んだ。
美咲は東京・表参道のブライダルサロンで、チーフウェディングプランナーとして働いている。
これまで何百組もの新郎新婦の結婚式をプロデュースし、「美咲さんのおかげで最高の一日になりました」と感謝されてきた。
それなのに――来月に迫った自分自身の結婚式だけは、何一つ思い通りにいかなかった。
『神前式じゃなくて教会式にする? 相手の親御さんに失礼やないの』
『そんな露出の多いドレス着て、恥ずかしくないんか』
『引き出物、あんな軽々しいカタログギフトやなくて、ちゃんとした漆器にしなさい』
打ち合わせのたびに口を出してくる母と、先週、とうとう決定的な大喧嘩をしてしまった。
『もういい加減にしてよ! これは私の結婚式なの! お母さんの思い通りになる人形じゃない!』
『……そう。なら、私は式に出んでもええんやな』
凍りついた関係を修復するため、婚約者が気を利かせて手配してくれたのが、この母の故郷を巡る一泊二日の金沢旅行だった。
だが、新幹線の車内からずっと、会話は途切れたままだった。
ハンドバッグの底をまさぐった時、指先に硬い紙の感触が触れた。
取り出してみると、それは一枚の小さな厚紙の切符だった。
見慣れない茶色い硬券。
┌──────────────────┐
│ [風] 風 の 切 符 │
│ 発駅:意地を張った雨の門 │
│ 着駅:素直になれる暖簾の先 │
│ │
│ 経由:七尾線・友禅の道 │
└──────────────────┘
「風の切符……?」
美咲が眉をひそめたその時だった。
金沢駅の在来線ホームから、おめでたい琴の調べが雅やかに響いてきた。
ふと視線を向けると、七尾線のホームに、息を呑むほど豪奢な列車が滑り込んでくるところだった。
車体は、輪島塗の漆黒と、燃えるような茜朱色の二色。
窓のまわりには、加賀友禅の優美な四季の草花と、きらびやかな金箔の流水紋が、これでもかと絢爛に描かれている。
観光列車『花嫁のれん』。
プシューッと扉が開き、デッキから現れた女性の姿に、美咲も、そして母・真弓も、同時に息を呑んだ。
そこに立っていたのは、加賀百万石の美を一身にまとったような美女だった。
艶やかに結い上げられた黒髪には、金沢伝統の水引細工とべっ甲の簪が揺れている。
身に纏うのは、深紅の輪島塗と友禅染の着物。
その佇まいは、名門旅館の若女将のように凛として、慈愛に満ちていた。
女性は美咲の手の中の『風の切符』に目を留めると、優美に指先を揃えて一礼した。
「ようこそ、雪の金沢へおいでくださいました。……お母様も、お嬢様も、冷たい雨に濡れて、お手が悴んでいらっしゃいますね」
女性は美咲と真弓の頭上に、大きな朱塗りの和傘をふわりと差し伸べた。
傘の下に包まれた瞬間、冷たい雨雪が遮られ、ほのかな白檀の香りが漂った。
「私の名前は『花嫁』。人と人、心と心を結ぶ『のれん』の付喪神でございます」
花嫁は二人の顔を優しく見つめた。
「一本の傘に入れないほど頑ななお心……どうぞ、わたくしの車内で温めてまいりましょう。能登の海と温泉が、お二人を待っておりますよ」
母と娘は、吸い込まれるようにして、深紅の列車のデッキへと足を踏み入れていた。




