第005話:天空の麓で、霧の朝を迎える
竹田駅のホームに降り立ったとき、夕闇はすっかり山あいの町を包み込んでいた。
木造の風情ある駅舎の向こう、見上げるような急峻な山の頂に、かすかにライトアップされた石垣のシルエットが浮かび上がっている。国の史跡・竹田城跡――別名「天空の城」だ。
「今日はここまでさ。あそこの宿で一晩泊まって、明日の朝一番の景色を見ていきな」
はまかぜが指差したのは、駅前の石畳の小路沿いに佇む、古い木造の宿「寺町屋」だった。
「はまかぜは泊まらないのか?」
「あたしは駅の留置線で夜風を浴びて寝るよ。鉄の車体が一番落ち着くんだ。朝六時、駅の裏の展望台へ来な。寝坊したら置いてくからね!」
そう言ってひらりと手を振り、闇の中へと消えていった。
***
通された六畳間の和室には、使い込まれた座卓と、ほのかに樟脳の香る清潔な布団が敷かれていた。
出迎えてくれた白髪の女将さんは、涼太の手ぶらの姿を見ても詮索せず、「ようお越し。お風呂沸いてますさかい、温まっておくれやす」と温かいほうじ茶を出してくれた。
熱い湯に肩まで浸かり、手足を伸ばすと、都会で張り詰めていた筋肉がゆっくりと緩んでいくのがわかった。
翌朝、午前五時半。
目覚ましもかけずに自然と目が覚めた。窓を開けると、ひんやりとした白い空気が部屋を満たした。
宿を出て、はまかぜに言われた通り駅裏の山道を登る。
息を切らしながら展望台の展望デッキにたどり着いた瞬間、涼太は息を呑んだ。
「……うそだろ」
眼下に広がる円山川の盆地が、一面の真っ白な「霧の海」に覆われていた。
雲海の中から、竹田城の苔むした石垣が、まるで天空に浮かぶ巨大な船のように島影となって浮かび上がっている。
東の山の端から、柔らかな朝陽が差し込むと、白一色だった雲海が淡い黄金色、そして桜色へと刻一刻と表情を変えていく。
風が渡ると、霧の波がさざめき、遠くの棚田が露を帯びてキラキラと輝く。
息をすることすら忘れるほどの、静寂と美しさ。
「見事なもんだろ?」
いつの間にか隣に立っていたはまかぜが、缶コーヒーを片手に笑っていた。
「秋から冬の早朝、昼夜の寒暖差が大きい日にしか出ないんだ。播磨から山を越えて吹き込む風と、但馬の湿った空気がぶつかって、この霧を生む。自然の気まぐれが生み出す、一瞬のご馳走さ」
「……ああ。美しすぎて、言葉が出ないよ」
「景色を腹に入れたら、今度は本物の飯だ。宿に戻りな。女将さんが朝飯を用意してくれてるよ」
***
宿の一階の居間に戻ると、食卓には湯気の立つお膳が待っていた。
豪華な舟盛りも、キャビアもフォアグラもない。そこにあったのは、日本の田舎の、極めて当たり前の朝食だった。
・おひつに入った、炊きたての但馬産コシヒカリ。
・地元の養鶏場で今朝採れたばかりの、殻の固い赤玉卵。
・畑の土がついたままの大根葉と、ふっくらした油揚げの味噌汁。
・自家製の赤紫蘇で漬けられた、大粒の梅干し。
「冷めないうちにどうぞ」と女将さんが微笑む。
涼太は茶碗に白米をよそった。米粒の一つひとつが立っていて、まるで真珠のように透き通るような白さで輝いている。
まず、米だけを口に運んだ。
「っ……!」
噛んだ瞬間、強い弾力とともに、濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
生野峠を越えて流れ込む冷たい清流と、昼夜の寒暖差が育んだ但馬米。咀嚼するごとに、米そのものが持つ力強い生命力が喉を通っていく。
続いて、味噌汁の椀を持ち上げ、ずずっと啜る。
煮干しと昆布の素朴な出汁に、田舎味噌の優しい大豆の香り。大根葉のシャキシャキとした歯ごたえと、出汁をたっぷり吸い込んだ油揚げのコク。
さらに、赤玉卵を割り入れ、生醤油をひと回し垂らした卵かけご飯をかっこむ。濃厚な黄身が熱々の米粒を包み込み、醤油の香ばしさと相まって、胃の腑に染み渡る。
「……うまい。うまいです、女将さん……」
涼太の目から、またも涙が溢れた。今度は悲しい涙ではない。五臓六腑が歓喜に震える涙だった。
「ふふ、よう食べてくれはる。うちの米も味噌も、この土地の土と水が作ってくれたもんですさかい。お兄さん、いいお顔になりましたな」
おひつのご飯を三杯おかわりして、綺麗に平らげた。
涼太の舌は、完全に蘇っていた。いや、それどころか、素材そのものが持つ「命の味」を、これまで以上に鋭く、深く感じ取れるようになっていた。
「よし、いい食いっぷりだ!」
宿の玄関先で、はまかぜがカバンを肩に担ぎ直した。
「いよいよ山を抜けて、海へ出るよ。城崎を抜けて、余部の鉄橋を渡って、香住へ! 乗り遅れるんじゃないよ!」
朝陽を浴びて輝く銀の特急が、涼太を待ってホームで静かに息づいていた。




