第004話:生野峠の唸りと、母の背中
ガガガガッ、と足元から強烈なトルクの衝撃が突き上げてきた。
生野駅を出発した特急はまかぜは、播但線最大の難所――生野峠へと差し掛かっていた。
線路は急勾配を描いて登り続け、車体全体がわずかに軋む。床下のコモンレール式ディーゼルエンジンが、野獣のような唸り声を上げて排気熱を吹き上げていた。
「よしよし、いい唸りだ! 登れ、登りきれ!」
運転台のすぐ後ろのデッキで、はまかぜが手すりに手をかけ、嬉しそうに目を輝かせている。
車窓の両側には、手が届きそうなほど間近に迫る杉の巨木と、苔むした岩肌。電車なら架線から電気をもらってスルスルと登っていくところを、この列車は自らの腹に積んだ燃料を燃やし、己の力だけで山をねじ伏せるように登っていく。
「すごいパワーだな……。まるで生き物みたいだ」
涼太が呟くと、はまかぜが誇らしげに胸を張った。
「当たり前さ! 四百五十馬力のエンジンが二基、各車両に積んであるんだ。どんな険しい峠だろうと、あたしは絶対に足を止めないよ」
タダン、タダン、タダン……。
重厚なジョイント音がリフレインする。
窓の外を流れる山の緑を見つめているうちに、涼太の脳裏に、長く封印していた記憶が甦ってきた。
――母の、背中だ。
涼太の母・恵子は、涼太が十七歳のときに病気で亡くなった。
父は涼太が幼い頃に家を出ており、母は女手一つで、大阪の下町でパートを掛け持ちしながら涼太を育ててくれた。
決して裕福ではなかった。毎日の食卓には、もやしや豆腐、特売の鶏肉が並んでいた。
けれど、母の作る料理は、なぜか飛び切り美味しかった。
特に、涼太が風邪を引いて寝込んだときや、運動会で一等賞を取った日の夜に作ってくれた「煮物」と「うどん」。
大きめの土鍋の蓋を開けると、ふわりと立ち上る湯気。
出汁は驚くほど透き通った黄金色で、醤油の角が立たず、どこかほんのりと甘い。大根や里芋の芯までその出汁が染み渡り、口の中でじゅわっとほどけるのだ。
『お母ちゃん、これめっちゃ美味い。どうやって作ってんの?』
高校生になり、料理に興味を持ち始めた涼太が尋ねたことがあった。
母は少し誇らしげに、細い目を細めて笑った。
『これな、香住の文子姉ちゃんに教えてもらったんよ。昆布と、カニの殻と、干し椎茸。日本海の風に当てたもんを使うたら、どんな安い野菜でもご馳走になるんやって』
「……そうだ。母さんは、香住の人だった」
涼太は思わず声に出していた。
「ん? 何か言ったかい?」
はまかぜが振り返る。
「……思い出したんだ。俺の母さんの実家、日本海の港町……香住にあったんだ。母さんが死んでから、親戚付き合いも途絶えて、ずっと忘れてた……」
涼太は震える手で、ポケットの中の「風の切符」を取り出した。
┌──────────────────┐
│ [風] 風 の 切 符 │
│ 発駅:いま、立ち止まっている場所│
│ 着駅:本当に帰るべき場所 │
└──────────────────┘
「着駅:本当に帰るべき場所……。これって、もしかして……」
「へへっ」
はまかぜが、いたずらっぽく笑った。
「言ったろ? 行き先は、あんたの心が知ってるってさ。あたしの終点は浜坂だけど、もちろん香住にも止まるよ」
「俺……なんで料理人になったんだろうって、ずっと考えてたんだ」
涼太の目から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「高級フレンチのシェフになって有名になりたかったんじゃない。ミシュランの星が欲しかったわけでもない。ただ……あの母さんの出汁みたいに、一口食べた人が『ああ、生きててよかった』って、体の芯から笑ってくれるような料理が作りたかったんだ……。それなのに俺は、いつの間にか客の顔も見ずに、自分のプライドばかり料理に盛り付けてた……」
列車がふっと軽くなった。
唸りを上げていたエンジンが静まり、車体が滑るように下り坂へと入っていく。
生野峠の頂上を越えたのだ。
ここから先は、播磨の国から但馬の国へ。山を越え、日本海へと水が流れる分水嶺。
「泣くのはまだ早いよ、シェフ」
はまかぜがポンと涼太の肩を叩いた。
「峠は越えた。でも、香住に着く前に、もう一つだけ寄らなきゃいけない場所がある。今夜は天空の城の麓で、ひと休みと行こうじゃないか」
窓の外には、視界いっぱいに広がる但馬の山並みと、谷間に広がる美しい田園風景が夕暮れの茜色に染まり始めていた。




