第003話:峠の手前、銀山街道の栃餅
まぶしい朝の光が、まぶたの裏をオレンジ色に染め上げていた。
「おい、起きな! 朝だぞ、シェフ!」
ペシペシと頬を叩かれ、涼太は跳ね起きるように目を覚ました。
「う、うわっ……! 仕込みの時間は――!?」
「あははっ、まだそんなこと言ってんのかい。ここは厨房じゃないよ。生野駅のホームさ」
車窓を見やると、そこには昨夜の暗闇とは一変した、眩いばかりの緑の世界が広がっていた。
山肌にへばりつくようにして建つ古い町並み。瓦屋根の連なりと、背後にそびえる深い杉林。高原の涼やかな朝風が、ホームを吹き抜けていく。
空気が、驚くほど澄んでいた。吸い込むだけで肺の奥が洗われるような感覚に、涼太は思わず何度も深呼吸をした。
「ほら、降りな。ちょっと付き合ってもらうよ」
はまかぜは軽快な足取りでデッキを降り、改札口へと向かっていく。
「えっ、ちょっと待ってくれ! 列車を置いていって大丈夫なのか?」
「あたしの足はあたしの言うことを聞くんだよ。二十分もあれば戻ってこられるさ。それより、腹減ってんだろ?」
「腹……」
言われてみれば、昨日の昼から何も口にしていなかった。胃袋がきゅるりと音を立てて自己主張する。
改札を出ると、そこはかつて銀山で栄えた宿場町の風情を残す通りだった。赤茶色の瓦が美しい「生野甲社宅」と呼ばれる古い木造建築が並んでいる。
はまかぜが迷いなく入っていったのは、駅前の古びた和菓子屋の暖簾だった。
ガラスケースの中には、素朴な茶色い餅が、竹の皮の上に並べられている。
「おばちゃん、栃餅二つ包んで!」
「はいはい、毎度どうも……おや、今日はお連れさんがいるのかい」
白髪の上品なおばあさんが、新聞紙と経木で手際よく包んでくれた。受け取った包みからは、ほの温かいぬくもりが伝わってくる。
駅の木製ベンチに並んで座り、はまかぜが包みを開いた。
現れたのは、淡い黄褐色をした、手のひらサイズの丸い餅だった。つるりとした白玉や大福のような艶やかさはない。どこかゴツゴツとしていて、ところどころに茶色い粒が混じっている。
「ほら、食いな。生野名物、栃餅だよ」
「栃餅……栃の実を使った餅か。フランス料理でも木の実のピュレは使うが……」
職業病で理屈が先に立つ涼太に、はまかぜは呆れたように眉を寄せる。
「頭で食べるんじゃないよ。口で食べな!」
促され、涼太はおずおずと栃餅を口に運んだ。
歯を立てると、驚くほど力強い弾力が返ってきた。そして、噛み締めた瞬間に広がる独特の風味。
「……っ」
一瞬、舌の奥にキュッとした渋みと、ほろ苦さが走る。
だが、それは嫌な苦みではない。山深い森の奥、何十年も風雪に耐えた巨木が蓄えた、大地の力強いミネラルの香りだ。
続いて、中の粒あんが舌の上でほどける。甘さは極めて控えめで、小豆の皮の香ばしさと優しいコクが、栃の実の野趣あふれる苦みと完璧に溶け合っていく。
渋みがあるからこそ、小豆の甘みが引き立つ。甘みがあるからこそ、山の香りが際立つ。
「……うまい」
自然と声が漏れていた。
舌の奥が、じんじんと熱い。昨夜まで砂のようだった舌の感覚が、まるで渇いたスポンジが水を吸い上げるように、鮮やかに味を受け止めている。
「だろ?」
はまかぜが満足そうに自分の栃餅を頬張りながら、足を揺らした。
「栃の実ってのはね、アクがものすごく強くて、そのままじゃとても食えたもんじゃないんだ。皮を剥いて、木灰の水に浸けて、何度も何度も水を替えて……アクが抜けるまでに、丸々一ヶ月以上かかるんだよ」
「一ヶ月……!?」
「そうさ。山の人はね、冬の貴重な保存食にするために、それだけの手間をかけたんだ。派手なスパイスも、煌びやかな飾りもない。だけどさ、時間をかけて、人の手でじっくりアクを抜いて作られたものは、胃袋の底にじんわり残るんだよ」
はまかぜの言葉が、涼太の胸に深く突き刺さった。
――俺は、何をしていたんだろう。
北新地の厨房で、自分は何を作っていたのか。
海外から空輸されたフォアグラやトリュフ。皿の上にピンセットで飾り立てた食用花。お客様の舌を喜ばせるためではなく、「どうだ、俺の技術は凄いだろう」と見せつけるためだけに料理を作っていなかったか。
短時間でインパクトを出すための強すぎる塩味、過剰なバターとクリーム。
そんなものばかりを舐め続けていたから、自分の舌は疲れ果て、悲鳴を上げて閉じてしまったのではないか。
「……素朴だけど、ものすごく手が込んでる。嘘がない味だ」
涼太が呟くと、はまかぜは嬉しそうに笑った。
「味がわかってきたじゃないか、シェフ。さあ、腹ごしらえが済んだら、いよいよ生野峠越えだよ。ここから先は、あたしのディーゼルが火を吹く番さ!」
二人は空になった包み紙を畳み、再び銀の特急へと乗り込んだ。
エンジンのアイドリング音が、先ほどよりもどこか頼もしく、温かく聞こえた。




