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第002話:ディーゼルの鼓動、市川を遡る

深夜の車内には、涼太とはまかぜの二人しかいなかった。

 蛍光灯の白い光に照らされた座席は整然と並び、床下からは規則正しい「タダン、タダン」というジョイント音が響いている。

 電車のモーターが放つ「キュイーン」という電子的な唸りとは違う。ピストンが往復し、クランクシャフトが回り、重油を爆発させて進む内燃機関の、心臓の鼓動のような重く温かい振動。

 シートに深く身を沈めていると、その振動が背骨を通じて全身へと伝わってくる。


「……あの、はまかぜ、さん」

 涼太が恐る恐る声をかけると、通路を挟んだ向かいの席で、足を組んで帽子をくるくると指で回していた少女が顔を上げた。

「『さん』付けなんて柄じゃないよ。はまかぜでいいさ。で、なに? まだ車酔いでもしてる?」

「いや、そうじゃなくて……。この列車、どこへ向かってるんだ? それに、あんたは一体……」

「どこへ向かってるかって? 北だよ。姫路を出て、播但線を登って、生野の峠を越えて、但馬を抜けて日本海へ。あたしのいつもの仕事場さ」

 はまかぜは窓の外、漆黒の中にぽつりぽつりと灯る民家の明かりを指差した。

「あたしが何者かって言われたら……そうだねぇ。この鉄の塊に宿った魂、みたいなもんかね。『鉄娘(てつこ)』とか『付喪神(つくもがみ)』とか、昔の人は呼んだりしたらしいけど。あたし自身は、ただ走るのが好きなだけさ」


「鉄娘……列車の付喪神……?」

 普段の涼太なら、何かの冗談かタチの悪いドッキリだと笑い飛ばしていただろう。だが、目の前の少女から漂う気配は、あまりにも澄んでいて、同時にこの巨大な鉄の車体そのもののように逞しかった。

 彼女の指先が窓枠を叩くと、まるで列車全体がそれに呼応するように、微かにエンジンの回転数が上がる。その光景を前にしては、信じざるを得なかった。


「で? あんたは何から逃げてきたんだい、シェフさん」

 はまかぜが、すっと目を細めて涼太を見据えた。群青色の瞳が、涼太の心の奥底を覗き込むように射抜く。

「……わかるのか?」

「そりゃね。あたしゃ何十年、何百万人もの人間を乗せてきたんだ。故郷を離れて都会へ行く奴、夢破れて帰る奴、好きな人に会いに行く奴……。座席に腰掛けた瞬間の背中の重さで、大体のことはわかるさ。あんたの背中、まるで鉛の塊を背負ってるみたいだったよ」


 涼太は自嘲気味に口元を歪め、自分の両手を見つめた。

 包丁ダコが固く盛り上がった右手。火傷の痕が無数に残る左腕。十数年間、厨房という戦場でひたすら戦い続けてきた証拠だ。

「……味が、わからなくなったんだ」

 ぽつり、と誰にも言えなかった本音がこぼれ落ちた。

「俺は大阪の店で料理を作ってた。流行りの食材を取り寄せて、綺麗に皿に盛り付けて、ワインに合わせた複雑なソースを作って……。でも、いつからか、自分が何を作ってるのかわからなくなった。塩が足りないのか、甘みが強いのか、自分の舌が信じられなくなって……。今日、とうとう客に出すメインの肉料理のソースを失敗した。シェフに見限られて、怖くなって逃げ出したんだ」


 情けない告白だった。大の男が、三十を過ぎて、仕事から逃げ出して深夜の列車に揺られている。

 叱責されるか、呆れられるかと思った。

 だが、はまかぜは怒りも嘲笑もしなかった。ただ「ふーん」と短く息を吐くと、やおら立ち上がり、座席の窓の鍵に手をかけた。


「おい、窓を開けるのか? 特急の窓は……」

「普通の列車は開かないけどね。あたしの車内は特別なのさ!」


 ガタッと音を立てて、窓が十センチほど押し下げられた。

 その瞬間――冷涼な夜風が、ゴォッという風切り音とともに車内へと吹き込んできた。


「うわっ……! 冷たっ……!」

「ほら、深呼吸しな! 胸いっぱいに吸い込むんだよ!」

 はまかぜが涼太の背中をバシッと叩く。

 促されるまま、涼太はおずおずと鼻から息を吸い込んだ。


「……あ」


 ツンとした排気ガスの匂いはなかった。

 鼻腔をくすぐったのは、驚くほど濃密な「自然の匂い」だった。

 川のせせらぎが運ぶ、湿り気を帯びた冷たい水飛沫の気配。両脇に迫る山々の、青々とした若葉と湿った腐葉土の香り。そして、初夏の田んぼに張られたばかりの水が放つ、どこか懐かしい泥と草の匂い。


「ここは福崎を過ぎて、寺前へ向かう谷あいさ。横を流れてるのは市川。播磨の山から瀬戸内へ注ぐ、清流だよ」

 はまかぜが目を細めて風を受ける。

「あんたの鼻も舌も、死んじゃいないよ。都会のコンクリートと排気ガス、それに『焦り』ってやつで、鼻の穴が塞がれてただけさ。ほら、ちゃんと匂うだろ? 土と水の匂いが」


「……ああ。匂う。すごく、いい匂いだ……」

 涼太の胸の奥で、カチコチに凍りついていた何かが、ピシリと音を立ててひび割れた。

 都会の厨房では、換気扇の轟音と油の匂い、漂白剤の刺激臭に囲まれていた。自分が今、どんな季節の、どんな空気の中にいるのかすら忘れていたのだ。


「列車はこれから、もっと深い山へ入るよ。今夜はひとまず寺前の留置線で夜明かしだ。明日の朝、とびきりの寄り道に連れてってやるから、少し目を閉じな」

「寄り道……?」

「そうさ。風の切符を持ってる旅人はね、寄り道する権利があるんだよ」


 はまかぜはニッと八重歯を覗かせて笑うと、車掌帽のつばを指で押し上げた。

 ディーゼルの心地よい重低音に包まれながら、涼太は十数年ぶりに、深く安らかな眠りへと落ちていった。

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