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第001話:風の切符と銀の気動車

 自分の舌が、死んだのだと思った。


 大阪・北新地。きらびやかなネオンが濡れたアスファルトに反射する夜の帳の中で、吉野涼太(よしの りょうた)は厨房の裏口から転がり出るように逃げ出した。

 三十二歳。フランス料理をベースにした人気ビストロで、スーシェフ――副料理長の肩書を背負っていた。

「涼太、今日のソース・ヴァン・ルージュ、塩が強すぎる。それに赤ワインの煮詰めが足りない。香りが飛んでるぞ」

 オーナーシェフの静かな、しかし失望を含んだ声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。

 味見は何度もしたはずだった。スプーンで掬い、舌先に乗せ、上顎に押し当てて確かめた。けれど、そこにあったのは単なる「塩味」と「酸味」という記号だけで、料理が持つべき奥行きや、食べる人の心を震わせるような温もりが、まるで感じ取れなくなっていた。

 ――味が、わからない。

 何を食べても、厚いゴムの膜越しに砂を噛んでいるようだった。

 流行のSNS映えを狙った盛り付け、原価計算、後輩の指導、そしていつかは自分の店をという重圧。いつの間にか涼太の心と舌は、すり減り、ひび割れ、ついに何も感じなくなってしまっていた。


 気がつけば、JR大阪駅のホームに立っていた。

 財布とスマートフォンだけを握りしめ、吸い込まれるように乗り込んだ新快速。西へ、西へ。通勤客が一人、また一人と降りていき、車内の灯りが寒々しく感じられる頃、電車は終点の姫路駅へと滑り込んだ。


「……はは、どこまで行く気だったんだよ、俺は」


 夜風が吹き抜ける高架ホームの木製ベンチ。涼太は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。

 白鷺城と呼ばれる姫路城のライトアップも、とっくに消えている深夜。帰る電車もない。ビジネスホテルを探す気力すら湧かない。

 コートのポケットに手を突っ込んだとき、指先に固い紙の感触が触れた。

「ん……? なんだこれ」

 取り出してみると、それは一枚の小さな長方形の厚紙だった。

 現代の薄い磁気切符やプラスチックのICカードとはまるで違う。指先にずしりと重みを感じる、昔ながらの「硬券(こうけん)」と呼ばれる切符。

 表面には、かすれた黒い活版印刷で、こう印字されていた。


┌──────────────────┐

│ [風]  風 の 切 符    │

│ 発駅:いま、立ち止まっている場所│

│ 着駅:本当に帰るべき場所    │

│                 │

│ 経由:心の向くまま、寄り道線  │

└──────────────────┘


「……風の切符? なんだよこれ、誰かの悪戯か?」

 裏面を見ても、発行駅も日付も書かれていない。ただ、ほのかに乾いた鉄と、どこか遠い野山の草いきれのような匂いが漂っていた。


 その時だった。

 遠くの闇を切り裂いて、太く、腹の底を揺らすような重低音が響いてきた。


 ――フォォォォォォンッ!


 鋭い電気笛ではない。空気を力強く押し出す、どこか野性味を帯びた気動車(ディーゼル)のタイフォン(汽笛)。

 ガタゴトと地響きを立てながら、暗闇のレールを照らす二筋のヘッドライトが近づいてくる。

 入線してきたのは、鋭角的なステンレスの車体に、燃えるような茜色と銀のラインをまとった特急列車だった。屋根の上に並んだ放熱器、車体下部から立ち上るわずかな軽油の排気熱。都会の電車にはない、鉄と油の逞しい気配。


「……回送列車か? こんな時間に?」

 涼太が呆然と見上げていると、プシューッと甲高い空気の抜ける音がして、目の前の扉が開いた。

 ステップからひらりとホームに飛び降りてきた人影がある。


「ふぅーっ、定時到着! 今日もいい風が吹いてたねぇ!」


 涼太は思わず目を疑った。

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 赤と銀のラインが入った濃紺のジャケットに身を包み、頭には少し斜めに車掌帽を被っている。ショートカットの髪は毛先が淡い茜色に染まり、夜風に軽やかに揺れていた。瞳は澄んだ日本海のように深い群青色。年の頃は十代後半から二十歳そこそこに見えるが、その立ち居振る舞いには、何千キロもの線路を駆け抜けてきた古強者のような凛々しさがあった。


「……え、車掌さん? こんな時間に?」

 思わず声をもらした涼太に、少女がピタリと視線を止めた。

 そして、涼太の右手に握られた小さな硬券に目を留めると、いたずらっぽく口角を吊り上げた。


「おっ、持ってるじゃないか。『風の切符』」

「えっ、あ、これ……拾ったというか、ポケットに入ってて……」

「拾ったんじゃないよ。あんたが呼んだのさ。ほら、そんな情けない顔して突っ立ってないで、さっさと乗りな!」

「は……? 乗るって、どこへ? この列車、営業運転じゃないでしょう?」

「あたしの名前は『はまかぜ』! 播但の山を越え、日本海の汐風を運ぶ特急だよ。行き先なんて、乗ってから決めりゃいいんだよ。ほら、あたしのエンジンが冷めちまう前に!」


 少女――はまかぜは、細い腕からは想像もつかない力で涼太の手首を掴んだ。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺は大阪の料理人で、明日も仕込みが……いや、もう仕事なんて……」

「能書きは車内で聞きな!」


 ドン、と背中を押され、涼太はデッキへと押し込まれた。

 直後、バタンと自動ドアが閉まり、ガコンと重い連結器が噛み合う衝撃が走る。

 ゴルルルルルッ……と床下で巨大なディーゼルエンジンが唸りを上げ、列車は滑らかに、しかし圧倒的なトルクで前へと動き出した。


「うわっ……!?」

「座りな、窓際の席。あんた、いい顔してるよ。とびきり迷って、とびきり腹を空かせた、最高の旅人の顔だ!」


 窓の外、姫路の街明かりがみるみるうちに遠ざかっていく。

 列車は電化された大動脈を離れ、闇深い北の山々――播但線へと、夜の闇を切り裂いて突き進んでいくのだった。


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