第048話:那智の滝、飛沫に響く「ありがとう」
勝浦の港からバスで山を登り、苔むした熊野古道の大門坂を抜けると、空気の質がガラリと変わった。
樹齢数百年を超える杉の巨木が立ち並び、山全体が聖域の静寂に包まれている。
鳥居をくぐり、急な石段を下りていくにつれて、遠くの森の奥から、腹の底を震わせるような重低音が響いてきた。
ゴオオォォォォォォォ……ッ!
地鳴りのような轟音とともに、木々の間から姿を現したのは、神そのものとして祀られる大瀑布――**那智の滝**だった。
「うわあぁぁぁ……っ!」
健太は思わず足を止め、見上げた。
落差百三十三メートル。幅十三メートル。一段の滝としては日本一の落差を誇る巨瀑。
太古の原生林の断崖絶壁から、天を突く一本の巨大な白龍のように、膨大な水量が垂直に叩きつけられている。
滝壺から舞い上がる冷涼な水飛沫が、まるで濃い霧のように吹き寄せ、服も髪も一瞬でしっとりと濡らしていく。
差し込んだ朝の光を受け、滝壺の真上に、鮮やかな二重の虹がクッキリと架かっていた。
「すごい……! まるで、生き物みたいだ……」
幸造は手すりに両手をかけ、口を開けたまま立ち尽くしていた。
飛沫を浴びるその顔は、水滴で濡れていたが、拭おうともしなかった。
くろしおが二人の背後で、静かに腕を組んで佇んでいた。
いつものお転婆な声を出さず、ただ見守るように優しく微笑んでいる。
健太は深く息を吸い込んだ。
胸いっぱいに吸い込んだ那智の清涼な空気が、最後の勇気をくれた。
健太は父の横に並び、姿勢を正した。
そして――滝に向かってではなく、父・幸造に向き直り、腰を直角に折って深々と頭を下げた。
「親父」
轟音に負けないよう、腹から声を絞り出した。
「四十年間の仕事……本当にお疲れ様でした」
幸造が息を呑み、ゆっくりと顔を向けた。
「俺が子供の頃、工場で機械油にまみれて、夜遅くまで鉄を削ってた親父の背中……ずっと見てたよ。どれだけしんどい日でも弱音を吐かず、俺を育てて、大学まで出してくれて……本当に、ありがとうございました」
健太の頭の上を、滝の飛沫がサァッと吹き抜けた。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
やがて――健太の肩に、ずしりと重い手のひらが置かれた。
油の染み付いた、骨太な、温かい父の手だった。
「……顔を、上げろ」
掠れた声に促され、健太が顔を上げた。
そこには、顔中をくしゃくしゃにして、涙と飛沫で顔を濡らした父の顔があった。
頑固で、無口で、誰にも弱みを見せなかった職人が、子供のように声を震わせていた。
「……健太。お前がそう言うてくれたら……わしの四十年間は、無駄じゃなかったんやな」
幸造は健太の肩を、ぎゅっと力強く抱き寄せた。
「ありがとうな……健太。ええ息子に育ってくれて……本当に、ありがとうな……」
二人は滝の轟音の中で、肩を寄せ合って泣いた。
滝壺に架かる虹が、二人を祝福するように七色の光を放っていた。
四十年間の歳月を経て、父と息子は、ようやく真実の家族となったのだった。




