第047話:勝浦漁港の朝市、モチモチの生まぐろ
紀伊勝浦駅に降り立つと、そこは本州随一の「生マグロの聖地」だった。
港へ向かう通りには、マグロの解体ショーを告げる看板や、海鮮食堂の暖簾が軒を連ね、磯と醤油の香ばしい匂いが漂っている。
「さあさあ、お腹をペコペコにしてきたかい? 勝浦のマグロはね、そこらへんの冷凍マグロとはワケが違うんだから!」
くろしおが先頭に立って案内してくれたのは、勝浦漁港の魚市場の真横にある、朝獲れの魚を食べさせる大衆食堂だった。
市場のコンクリートの床には、延縄漁船から水揚げされたばかりの、数百キロもある巨大な本マグロやメバチマグロがズラリと横たわり、尾の切り口の鮮やかな赤身が電灯の下で輝いている。
一度も冷凍されずに氷水だけで冷やして運ばれた、「生一本生まぐろ」だ。
「お待ちどうさま! 生まぐろ三種盛り定食と、めはりずしだよ!」
威勢のいい声とともに運ばれてきた木盆を見て、健太も幸造も同時に息を呑んだ。
「……なんやこれ。色が全然違うぞ」
幸造が目を丸くした。
皿の上に盛られた刺身は、スーパーで見かけるようなドリップの浮いた濁った赤ではなかった。
まるで磨き上げられたルビーのように、奥底まで透き通るような深紅の赤身。
そして、薄い桜色に細やかな白いサシが霜降りのように入った中トロ。
一切れが、指の太さほども分厚く切られている。
幸造がワサビをちょんと乗せ、生醤油に浸して赤身を口に放り込んだ。
「……っ!!」
噛み締めた瞬間、幸造が目を見張り、箸を止めた。
「……モチモチや」
「でしょーっ!」
くろしおが得意満面に胸を張る。
「冷凍マグロは解凍するときに細胞が壊れて水っぽくなっちゃうけど、一度も凍らせてない生まぐろは、細胞が全部生きてるの! お肉みたいにプリンプリンで、舌に吸い付くような弾力があるんだよ!」
健太も一切れ、中トロを口に運んだ。
舌に乗せた瞬間、体温で脂がスゥーッと溶け出した。
筋っぽさが微塵もない。舌触りは極上のベルベットのように滑らかで、上質なマグロの脂の甘みが、口内いっぱいに波のように押し寄せてくる。
飲み込んだ後も、嫌な油っぽさが一切残らず、清々しい磯の香気だけが喉に残る。
「美味い……! こんなマグロ、東京じゃ絶対に食べられない!」
「おう、ご飯が止まらんわ!」
さらに、盆の上に鎮座していたのは、赤ちゃんの頭ほどもある大きな緑色の包み――熊野名物**『めはりずし』**だった。
醤油とカツオ節を混ぜ込んだ炊きたてのご飯を、塩漬けにした高菜の大きな浅漬け葉で、ぎゅっと包み込んだ素朴な郷土料理。
「『目を見張るほど大きな口を開けて食べる』『目を見張るほど美味い』から、めはりずしって言うんだよ!」
幸造は両手でめはりずしを持ち、大口を開けてガブリとかじりついた。
シャキッ! と心地よい高菜の歯ごたえのあと、乳酸発酵した高菜の爽やかな酸味と塩気、そして温かいご飯の甘みが渾然一体となって押し寄せる。
マグロの刺身を放り込み、めはりずしで追いかける。
「うまい、うまい……!」
幸造は子供のように目を輝かせ、無我夢中で平らげていく。
その旺盛な食欲を見て、健太は目頭が熱くなった。
定年後、食欲がないとカップ麺ばかりすすっていた父が、こんなにも力強く命を喰らっている。
生きる力は、まだ何も衰えてなどいなかったのだ。




