第046話:那智黒石の漆黒、職人の眼光
紀伊勝浦駅へ向かう道中、くろしおが「ちょっと寄り道するよ!」と、街道沿いの古びた石材工房へと二人を引っ張っていった。
作業場からは、シュイィィィン……と水を流しながら石を研磨する甲高いモーター音と、濡れた岩石の匂いが漂っている。
「ここ熊野の名産品――**『那智黒石』**の工房だよ!」
くろしおが誇らしげに案内する。
那智勝浦の山中から採掘される、漆黒の緻密な粘板岩。古くから高級碁石の「黒石」や、書道の名硯として全国に知られる伝統工芸品だ。
作業場の奥では、防塵マスクをつけた初老の石工が、回転するダイヤモンド砥石に黒い石を押し当て、一心不乱に削り込んでいた。
幸造はその場に釘付けになった。
足が勝手に作業台へと吸い寄せられていく。
棚に並んでいたのは、仕上げられたばかりの硯だった。
油を薄く引かれた石肌は、まるでカラスの濡れ羽色のように深い艶を放ち、墨を磨るための平らな「丘」の部分は、指先で触れても凹凸が全く感じられないほど滑らかだった。
幸造は無意識に、右手の親指の腹でその平面を撫でた。
指先を何度も往復させ、光にかざして歪みを見る。
その瞬間、幸造の目が、年老いた隠居の目から、獲物を狙う鷹のような鋭い「職人の眼光」へと豹変した。
「……おい、大将」
幸造の低く鋭い声が、モーター音を突っ切った。
作業を止めた石工が、マスクを外して顔を上げる。
「なんですか、お客さん」
「この平面……どうやって出してんねん。機械加工やないな。手砥ぎやろ。……コンマ零二(100分の2ミリ)以内の平面度が出とる。石でどうやってこの平面を保てるんや?」
石工は目を丸くし、幸造の手を凝視した。
親指の固いタコ、爪の中に染み込んだ機械油、そして骨の太さ。
石工の顔が、職人同士だけに通じる不敵な笑みへと崩れた。
「へえ……あんた、ただもんじゃねえな。鉄削りか?」
「東大阪で、四十年間プレス金型削っとった」
「なるほどな、どうりで指先がマイクロメーターになってるわけだ」
石工は砥石を止め、幸造を自分の作業台のすぐ真横へと招き入れた。
「石はな、鉄と違って目があるんだ。硬い層と柔らかい層がミクロン単位で混ざり合ってる。機械で均一に削ると、柔らかいとこだけ掘れちまって歪むんだよ。だから、手のひらの圧力と、泥水の抵抗を指先で感じながら、三種類の天然砥石で撫でるように平らに均していくのさ」
「……手の圧力で、石の目を読むんか」
幸造は感嘆の溜息を漏らした。
「素材は違っても、魂は同じやな。わしもな、金型の最終仕上げは手砥石やった。機械じゃどうしても出せない千分の一の隙間を、油の感触だけで詰めていくんや」
「そうだろ、親方!」
石工が幸造の肩を叩いた。
「今どき、ミクロンを指先で読める職人なんて絶滅危惧種だ。あんた、いい手をしてるよ。その手、引退したからってお蔵入りさせちゃあバチが当たるぜ!」
――その手をお蔵入りさせちゃあバチが当たる。
石工の言葉に、幸造は自分のゴツゴツとした両手をじっと見つめた。
金型の工場は閉めた。けれど、この手の中に刻み込まれた四十年の技と感覚は、何も失われていなかったのだ。
健太は隣で、父の瞳の中に、再び職人の熱い炎がカッカと燃え上がるのを見ていた。
「くろしおちゃん……連れてきてくれて、ありがとうな」
幸造が振り返って言うと、くろしおはニカッと八重歯を見せて笑った。
「へへっ! 言ったろ? あたしの目に狂いはないんだから!」
一行は、いよいよ本州屈指のマグロの聖地――紀伊勝浦の港へと向かった。




