↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
44/214

第044話:湯煙の露天風呂、背中を流す夜

宿の奥、木製の渡り廊下を下りた先にある露天風呂は、まるで海そのものの中に浸かっているかのような岩風呂だった。

 打ち寄せる波しぶきが、時折岩肌を濡らすほどの波打ち際。

 立ち上る湯気からは、ほのかな硫黄と濃い潮の香りが混じり合い、夜の太平洋が黒い水平線となって広がっていた。


 熱い源泉に肩まで浸かると、芯まで冷え切っていた関節が、じわじわと解きほぐれていく。

 ふと見ると、幸造が岩風呂を出て、洗い場の木製ベンチに腰を下ろし、手桶で湯を被っていた。

 薄暗い裸電球の下に浮かび上がる父の背中。

 肩甲骨が浮き上がり、背骨がゴツゴツと曲がっている。

 子供の頃、見上げるように巨大だった父の背中が、こんなにも小さく、細くなっていたことに、健太は胸を衝かれた。


 健太は湯から上がり、石鹸とナイロンタオルを手に、父の背後へと歩み寄った。


「……親父、背中、流そうか」


 幸造の肩が、ピクリと強張った。

 一瞬の沈黙。

 断られるかと思ったが、幸造は何も言わず、ただ静かに背筋を丸めて前に座り直した。


 健太はタオルをしっかりと泡立て、父の背中に手を当てた。

 ゴシ、ゴシ、とリズミカルにタオルを滑らせる。

 皮膚はカサカサと乾いていて、肩の筋肉は鉄のように固く凝り固まっていた。四十年もの間、何千時間、何万時間と、重い鉄板を睨みつけ、屈み込んで旋盤を回し続けてきた身体だ。


「……健太」

 ざばざばと波が岩を打つ音に混じって、父の低い声が響いた。

「なんや?」

「……悪かったな」

「何がや」

「お前が子供の頃……日曜日も仕事ばっかりで、どこにも連れてってやれんかった。運動会も、参観日も、お母ちゃん任せで……キャッチボールの一つもしてやった記憶がねえ」


 幸造の頭が、深く垂れ下がった。

 健太はタオルの手を休めず、父の広い肩甲骨を力強く擦りながら、静かに笑った。


「何言ってんだよ、親父」

「……」

「俺な、子供の頃、友達にめちゃくちゃ自慢してたんやで」

「自慢……?」

「そうや。『うちのオヤジは、新幹線のブレーキの金型削ってんねんぞ』『ロケットの部品も作ってんねんぞ』ってな。油まみれで帰ってきて、ご飯食べたらすぐコタツで寝てまう親父の背中見て、男が働くってのはこういうことなんやなって、ずっと背中追っかけてたんや」


 健太の声が、微かに震えた。

「親父が汗水垂らして働いてくれたから、俺、不自由なく大学まで行けたんや。……俺の自慢の親父や。自分を責めたりすんなよ」


 手桶で湯を汲み、泡をザバァッと流した。

 幸造は両手で顔を覆ったまま、微動だにしなかった。

 ただ、その肩が、小刻みに震えていた。

 湯気と波しぶきに紛れて、老職人の目から溢れ出た涙が、熱い湯とともに流れていく。


「……おおきにな、健太」

 掠れた父の声が、夜の潮風に溶けていった。

 四十年かけて積もり積もった親子の間の壁が、白浜の温かい名湯の中で、跡形もなく消え去っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。