第044話:湯煙の露天風呂、背中を流す夜
宿の奥、木製の渡り廊下を下りた先にある露天風呂は、まるで海そのものの中に浸かっているかのような岩風呂だった。
打ち寄せる波しぶきが、時折岩肌を濡らすほどの波打ち際。
立ち上る湯気からは、ほのかな硫黄と濃い潮の香りが混じり合い、夜の太平洋が黒い水平線となって広がっていた。
熱い源泉に肩まで浸かると、芯まで冷え切っていた関節が、じわじわと解きほぐれていく。
ふと見ると、幸造が岩風呂を出て、洗い場の木製ベンチに腰を下ろし、手桶で湯を被っていた。
薄暗い裸電球の下に浮かび上がる父の背中。
肩甲骨が浮き上がり、背骨がゴツゴツと曲がっている。
子供の頃、見上げるように巨大だった父の背中が、こんなにも小さく、細くなっていたことに、健太は胸を衝かれた。
健太は湯から上がり、石鹸とナイロンタオルを手に、父の背後へと歩み寄った。
「……親父、背中、流そうか」
幸造の肩が、ピクリと強張った。
一瞬の沈黙。
断られるかと思ったが、幸造は何も言わず、ただ静かに背筋を丸めて前に座り直した。
健太はタオルをしっかりと泡立て、父の背中に手を当てた。
ゴシ、ゴシ、とリズミカルにタオルを滑らせる。
皮膚はカサカサと乾いていて、肩の筋肉は鉄のように固く凝り固まっていた。四十年もの間、何千時間、何万時間と、重い鉄板を睨みつけ、屈み込んで旋盤を回し続けてきた身体だ。
「……健太」
ざばざばと波が岩を打つ音に混じって、父の低い声が響いた。
「なんや?」
「……悪かったな」
「何がや」
「お前が子供の頃……日曜日も仕事ばっかりで、どこにも連れてってやれんかった。運動会も、参観日も、お母ちゃん任せで……キャッチボールの一つもしてやった記憶がねえ」
幸造の頭が、深く垂れ下がった。
健太はタオルの手を休めず、父の広い肩甲骨を力強く擦りながら、静かに笑った。
「何言ってんだよ、親父」
「……」
「俺な、子供の頃、友達にめちゃくちゃ自慢してたんやで」
「自慢……?」
「そうや。『うちのオヤジは、新幹線のブレーキの金型削ってんねんぞ』『ロケットの部品も作ってんねんぞ』ってな。油まみれで帰ってきて、ご飯食べたらすぐコタツで寝てまう親父の背中見て、男が働くってのはこういうことなんやなって、ずっと背中追っかけてたんや」
健太の声が、微かに震えた。
「親父が汗水垂らして働いてくれたから、俺、不自由なく大学まで行けたんや。……俺の自慢の親父や。自分を責めたりすんなよ」
手桶で湯を汲み、泡をザバァッと流した。
幸造は両手で顔を覆ったまま、微動だにしなかった。
ただ、その肩が、小刻みに震えていた。
湯気と波しぶきに紛れて、老職人の目から溢れ出た涙が、熱い湯とともに流れていく。
「……おおきにな、健太」
掠れた父の声が、夜の潮風に溶けていった。
四十年かけて積もり積もった親子の間の壁が、白浜の温かい名湯の中で、跡形もなく消え去っていた。




