第043話:円月島の夕景と、クエ鍋の熱気
白良浜を後にした二人は、臨海浦の海岸沿いへと足を運んだ。
夕暮れの海に浮かぶ、奇妙な形をした小島――円月島だ。
島の中央にぽっかりと丸い穴(海蝕洞)が開いており、西の空から沈みゆく巨大な夕陽が、まるで計ったかのようにその丸い穴の真ん中にすっぽりと収まった。
黄金色の光の帯が、海面をまっすぐに貫いて足元まで伸びてくる。
二人並んで防波堤に腰掛け、沈みゆく太陽を見つめた。言葉は交わさなかったが、その沈黙は天王寺駅のそれとはまるで違う、温かい共有の時間だった。
***
その夜、健太が奮発して予約した老舗割烹旅館の座敷には、湯気立ち上る大きな土鍋が据えられていた。
白浜が誇る冬から初夏の味覚の王様――**『天然本クエ鍋』**だ。
「さあ、お父さん、お兄さん! 南紀に来たらこれを食わなきゃ始まらないよ!」
仲居さんに混じって給仕を手伝うくろしおが、嬉しそうに土鍋の蓋を開けた。
――ボワッ!
立ち上ったのは、昆布と魚の骨から溶け出した、濃厚極まりない出汁の香りだった。
鍋の中では、大ぶりにぶつ切りにされた天然クエの身が、白菜や椎茸、春菊とともにグツグツと煮立っている。
「クエはね、『クエ食ったら他の魚食えん』って言われるくらいの高級魚さ。皮の周りのプルプルしたゼラチン質と、脂の乗った白身が最高なんだから!」
くろしおが小鉢にクエの身と熱々の出汁を取り分け、自家製の橙ポン酢をひと回し垂らしてくれた。
幸造は割り箸を割り、分厚い皮がついた身を口に運んだ。
「……っ!」
噛み締めた瞬間、幸造の目がカッと見開かれた。
皮のゼラチン質は、まるで上質な牛スジのようにねっとりと甘く、口の中の温度でとろけていく。
そして白身は、タイのように上品でありながら、マグロのトロのように脂が乗っており、噛むほどに旨味の肉汁がジュワジュワと溢れ出す。
橙ポン酢の爽やかな酸味が、クエの強烈な脂を完璧に包み込み、一切の臭みを感じさせない。
「……美味い。こんな魚、食ったことないぞ」
幸造は夢中になって箸を動かした。
「だろ? 骨の周りもしゃぶり尽くしなよ、一番美味い出汁が出るんだから!」
「親父、酒……飲もうか」
健太が徳利を持ち上げると、幸造は自分の陶器の盃を両手で差し出した。
トクトクトク……と注がれたのは、和歌山・海南の名酒『黒牛』の熱燗。
盃を傾け、喉を鳴らす。
どっしりとした米の旨味と切れ味のある辛口が、クエの脂と溶け合い、胃の腑をカッカと熱くさせる。
健太は、父の盃を持つ手を見つめた。
親指の付け根には、古い旋盤事故で縫った大きな傷跡。
爪の隙間には、どれだけ石鹸で洗っても落ちない、四十年間染み込み続けた機械油の黒い染み。
これが、自分を育ててくれた男の手なのだ。
「親父……工場、お疲れ様だったな」
健太が小さく言うと、幸造は盃を見つめたまま、低く呟いた。
「……終わってみたら、あっけないもんや。四十年、鉄ばっかり削ってきて……何が残ったんやろうなって、たまに思うんや」
その弱々しい言葉に、健太の胸がギュッと締め付けられた。
父は、寂しかったのだ。
誇りをかけていた仕事を失い、妻を失い、自分が社会から切り捨てられたような孤独の中にいたのだ。
健太は自分の盃を飲み干し、決意を込めて父の目を見つめた。




