第041話:有田みかん海道、車窓を染める黄金
列車は和歌山を過ぎ、海岸線と急峻な山肌の隙間を縫う「きのくに線」へと突入していた。
右へ、左へ。
急カーブが連続するレールの上で、特急くろしおはまるでオートバイのように車体を内側へと大きく傾けながら、猛烈なスピードで駆け抜けていく。
「お、おい……! えらい揺れるやないか!」
吊り革を握りしめる幸造に、通路に仁王立ちになったくろしおが自慢げに胸を張った。
「これが制御付き自然振り子ってやつさ! カーブでもスピードを落とさずに曲がれるんだ。あたしの足腰、舐めちゃ困るよ!」
車窓の外には、見渡す限りの絶景が広がっていた。
山の斜面全体に組まれた石垣の段々畑。初夏の太陽を浴びて、深い緑の葉を茂らせた果樹が、山肌を埋め尽くしている。有田のみかん海道だ。
枝の隙間には、小さく丸い青い実が無数に実り、風に乗って爽やかな柑橘の葉の香りが漂ってくる。
「ほら、お父さん! 肩に力が入りっぱなしだよ! これでも飲んで、少しは腹の底の力を抜きな!」
くろしおがドスンとテーブルに置いたのは、手のひらサイズのガラス瓶二本と、竹皮に包まれた小さな包みだった。
「なんやこれ……」
「有田の完熟みかんをそのまま丸ごと搾った、ストレートジュースさ! 水も砂糖も一滴も入ってない、本物の太陽の味だよ。それと、南部の紀州南高梅!」
幸造は眉をひそめ、「わしは甘いもんなんか飲まん」とそっぽを向いた。
「いいから飲むの!」
くろしおは王冠をパチンと外し、瓶を無理やり幸造の手に握らせた。
幸造は渋々といった表情で、瓶に口をつけた。
「ごくり……」
喉が鳴った。
その瞬間、老職人の目が丸くなった。
「……っ!」
舌の上に広がったのは、人工的な清涼飲料水とは次元の違う、濃厚極まりない甘みだった。
まるでみかんそのものを口の中で十個同時に潰したかのような、圧倒的な果汁の爆発。
だが、ベタつく甘さではない。黒潮の潮風と燦々と降り注ぐ陽光が育んだ、力強い酸味と芳醇なアロマが喉を通り抜けていく。
「ど、どうだ、お父さん!」
くろしおが顔を覗き込む。
幸造は瓶を見つめ、ゴクリと唾を飲み込み――そして、ぽつりと漏らした。
「……美味いな」
「え……?」
向かいの席で健太は息を呑んだ。
外食に行っても「味の素の味しかせん」「こんなもん家で食える」と文句ばかり言っていた父が、一口飲んだだけで「美味い」と言ったのだ。
幸造はそのまま一気に瓶を傾け、最後の一滴まで飲み干した。
「ほら、お兄さんも梅干し食いな!」
くろしおに促され、健太は竹皮を開いた。
現れたのは、赤紫蘇の深い紅色に染まった、赤ちゃんの握り拳ほどもある大粒の南高梅。
箸でつまんで口に放り込む。
薄い皮がプツンと破れ、ねっとりとした果肉が溢れ出す。
ツンとした塩辛さや酢の尖った酸味はない。紫蘇の爽やかな香りと、蜂蜜の柔らかな甘み、そして梅本来の上品な酸味が、疲れた身体の隅々にまで染み渡る。
「……すごく、優しい味だ」
「だろ?」
くろしおは満足そうに笑うと、窓の外を指差した。
「見てみなよ! 海が見えてきたよ!」
視界が開けた。
線路のすぐ脇に、紺碧の太平洋が広がっていた。
白い波頭を立てて打ち寄せる雄大な海。
幸造は空になったジュースの小瓶を握りしめたまま、じっとその青い海を見つめていた。その横顔には、大阪を出たときの険しさは、もう消え失せていた。




