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第040話:沈黙のボックス席、青い風の乱入

天王寺駅の阪和線ホームに漂う油と鉄の匂いの中で、健太は腕時計の秒針を何度も確認していた。


 水野健太(みずの けんた)、三十五歳。

 大阪市内のITコンサルティング会社でマネージャーを務めている。

 向かいのボックス席に座る男――父・幸造(こうぞう、六十五歳)は、使い古されたベージュのスイングトップの襟を立て、腕組みをしたまま微動だにせず、窓の外のコンクリート壁を睨みつけていた。


 重苦しい沈黙だった。

 東大阪の片隅で、四十年間、精密プレスの金型職人として生きてきた父。

 一ミリの千分の一――ミクロン単位の狂いを指先の感覚だけで削り出す腕利きだったが、今年、工場の老朽化と大口取引先の海外移転を機に、工場を畳んで定年退職した。

 五年前、母が他界してからはずっと一人暮らし。

 几帳面で職人気質、無駄口を一切叩かない父と、要領よく都会のサラリーマンとして生きてきた健太の間には、昔から深い溝があった。

 何か話さなければと、定年祝いの「南紀白浜・温泉一泊旅行」を企画したものの、新大阪から特急に乗り換えるまでの道中、交わした言葉は「切符持ったか」「ああ」の二言だけ。

 健太は居たたまれなくなり、ポケットからスマートフォンを取り出して、意味もなくニュースサイトをスクロールした。


 その時、幸造が上着のポケットから老眼鏡を取り出そうとして、一枚の紙片を床に落とした。

「あ、親父、落としたぞ」

 健太が拾い上げたのは、見慣れない厚紙の切符だった。

 硬くて茶色い昔ながらの硬券。


┌──────────────────┐

│ [風]  風 の 切 符    │

│ 発駅:言葉につまった場所    │

│ 着駅:背中を流し合える海    │

│                 │

│ 経由:紀伊半島・黒潮の道    │

└──────────────────┘


「……なんやこれ? 風の切符? 親父、こんなもん買ったんか?」

「知らん。……さっきの改札の前で、ポケットに入っとったんや」

 幸造は不機嫌そうに顔を背けた。


 その時だった。


 ――フォォォォォンッ!!


 ホームの空気を切り裂くような、イルカの鳴き声にも似た高らかで澄んだタイフォンが響き渡った。

 入線してきたのは、鋭い流線型のノーズを持つ特急列車だった。

 鮮やかなオーシャンブルーとエメラルドグリーンのラインをまとった、海風そのもののような車体――特急『くろしお』。


 バタン! と勢いよくデッキのドアが開いた。

「おっ待たせいたしましたぁぁぁーーっ!!」


 元気いっぱいの叫び声とともに、車内へ飛び込んできた人影に、健太も幸造も同時に目を丸くした。

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 鮮やかな太平洋の黒潮をそのまま染め上げたような、オーシャンブルーの長いツインテール。

 ターコイズブルーと白のマリンジャケットに、スポーティなショートパンツとスニーカー。

 大きく見開かれたマリンブルーの瞳は、南国の真夏の太陽のようにキラキラと爛漫な光を放っていた。


「な、なんやねん、あんた……?」

 幸造が眉間に深いシワを寄せて身構える。

 少女は二人のボックス席の前にスタスタと歩み寄ると、腰に手を当てて仁王立ちになった。


「なんだいアンタたち! お通夜みたいな顔して並んで座っちゃってさ! せっかくの南紀行きなのに、空気が重すぎてあたしの車輪が空転しそうだよ!」

「は……? 車輪……?」

 健太が呆然としていると、少女は健太の手から『風の切符』をサッと奪い取り、白い歯をニッと見せて笑った。


「持ってるじゃないか、最高の切符! あたしの名前は『くろしお』! 日本一の黒潮の海と、南紀の太陽を運ぶ特急だよ! そんな暗い顔した親子、あたしの列車に乗せて見過ごすわけにはいかないね!」


 くろしおは二人の腕を強引に掴むと、窓際の席へと押し込んだ。

「ちょ、ちょっと待ちなさい! わしらは白浜の宿を……」

「能書きは太平洋見てから言いな! 出発進行ーーっ!!」


 ガタン、と車体が大きく揺れ、唸るような加速音とともに、列車は天王寺駅のホームを蹴り出した。

 南へ、南へ。

 不器用な父と息子の旅路に、南紀の青い暴風が吹き荒れようとしていた。

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