↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/214

第038話:風紋の上に広げた、一枚の白い紙

東の空、日本海の水平線から、まばゆい朝陽が昇り始めた。

 黄金色の光が砂丘の起伏を照らし出し、無数の風紋が陰影を深めてくっきりと浮かび上がる。


 栞は砂の上に正座し、青谷で自ら漉き上げた因州和紙を、風紋の上にそっと広げた。

 風が和紙の端をパタパタと持ち上げようとする。

 栞は四隅に小さな砂丘の石を置き、キャンバスバッグから木炭とデッサン用の鉛筆を取り出した。


 指先が、微かに震えていた。

 けれど、それは恐怖や迷いの震えではない。全身の血管が泡立つような、創作への歓喜の震えだった。


「…………」


 栞は木炭の腹を、和紙の表面にそっと当てた。

 ざらり、と楮の繊維が木炭の粉を受け止める、微かな摩擦音が響いた。


 その瞬間、筆が走った。

 構想など練る必要はなかった。下書きも要らない。

 この数日間、西の鉄路で巡り会ったすべての情景が、濁流のように脳裏を駆け巡り、指先を通して紙の上へと溢れ出していた。


 宍道湖の湖畔で、二十五年ぶりに酒を酌み交わしていた雅人と修二の、あのくしゃくしゃの笑顔。

 倉吉の玉川を泳ぐ錦鯉と、素朴な三色の打吹だんごの滑らかな餡。

 勝部川の凍りつくような清流と、祖父の手のひらの形に削れた檜の簀桁。

 岩井窯の登り窯から立ち上る赤松の煙と、見知らぬ誰かの心を温める飴色の珈琲カップ。

 賀露港で炭火をパチパチと爆ぜさせていた親ガニの甲羅と、濃厚な酒の湯気。

 そして――今、この足元で生き物のように波打つ、砂丘の風紋。


 サッサッ、サササッ……!


 木炭の太い線が和紙の繊維に深く食い込み、鉛筆の繊細な銀色の線が光の粒を描き出していく。

 紙が、喜んでいた。

 祖父の魂が宿る勝部川の水で漉かれた和紙が、栞の魂の叫びを、一滴も漏らさずに吸い込んでいく。


「……すごい」

 傍らで見守っていたあめつちが、思わず息を呑み、両手を胸の前で固く握りしめた。


 和紙の上に現れたのは、一つの巨大な「循環(めぐり)」の絵だった。

 山から湧き出た水が川となり、和紙を漉き、土を潤し、海へと注ぐ。

 海で育った命が人に届き、人の手が道具を生み、誰かの笑顔を照らす。

 そしてそのすべてを、目に見えない優しい風が包み込み、次の駅へと運んでいく――。


 最後の一線を引いた時、栞の額から大粒の汗がぽたりと落ちた。

 木炭を握りしめた右手は真っ黒に汚れ、膝のエプロンには砂がびっしりとついていた。

 けれど、和紙を見つめる栞の瞳は、まるで洗いたてのダイヤモンドのように、純粋な光を放っていた。


「……描けた」

 栞の声が、砂丘の風に溶けた。

「私、描けたよ……おじいちゃん!」


 あめつちが静かに歩み寄り、栞の横に膝をついた。

 その神秘的な瞳に、朝陽が映り、一筋の清らかな涙が伝っていた。


「美しい……。まことに、天(あめ)と地(つち)が結ばれたような美しさでございます」

 あめつちは栞の真っ黒に汚れた手を、自らの両手で優しく包み込んだ。

「迷いはもう、どこにもございませんね。あなたの手から生まれたこの風は、必ずや京都の地で、多くの人々の心を照らすことでしょう」


 朝陽を浴びて、砂丘の風紋と、一枚の白い和紙が、黄金色に輝いていた。

 失われていた栞の魂の芯が、この山陰の乾いた風の中で、完全に蘇った瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。