第038話:風紋の上に広げた、一枚の白い紙
東の空、日本海の水平線から、まばゆい朝陽が昇り始めた。
黄金色の光が砂丘の起伏を照らし出し、無数の風紋が陰影を深めてくっきりと浮かび上がる。
栞は砂の上に正座し、青谷で自ら漉き上げた因州和紙を、風紋の上にそっと広げた。
風が和紙の端をパタパタと持ち上げようとする。
栞は四隅に小さな砂丘の石を置き、キャンバスバッグから木炭とデッサン用の鉛筆を取り出した。
指先が、微かに震えていた。
けれど、それは恐怖や迷いの震えではない。全身の血管が泡立つような、創作への歓喜の震えだった。
「…………」
栞は木炭の腹を、和紙の表面にそっと当てた。
ざらり、と楮の繊維が木炭の粉を受け止める、微かな摩擦音が響いた。
その瞬間、筆が走った。
構想など練る必要はなかった。下書きも要らない。
この数日間、西の鉄路で巡り会ったすべての情景が、濁流のように脳裏を駆け巡り、指先を通して紙の上へと溢れ出していた。
宍道湖の湖畔で、二十五年ぶりに酒を酌み交わしていた雅人と修二の、あのくしゃくしゃの笑顔。
倉吉の玉川を泳ぐ錦鯉と、素朴な三色の打吹だんごの滑らかな餡。
勝部川の凍りつくような清流と、祖父の手のひらの形に削れた檜の簀桁。
岩井窯の登り窯から立ち上る赤松の煙と、見知らぬ誰かの心を温める飴色の珈琲カップ。
賀露港で炭火をパチパチと爆ぜさせていた親ガニの甲羅と、濃厚な酒の湯気。
そして――今、この足元で生き物のように波打つ、砂丘の風紋。
サッサッ、サササッ……!
木炭の太い線が和紙の繊維に深く食い込み、鉛筆の繊細な銀色の線が光の粒を描き出していく。
紙が、喜んでいた。
祖父の魂が宿る勝部川の水で漉かれた和紙が、栞の魂の叫びを、一滴も漏らさずに吸い込んでいく。
「……すごい」
傍らで見守っていたあめつちが、思わず息を呑み、両手を胸の前で固く握りしめた。
和紙の上に現れたのは、一つの巨大な「循環」の絵だった。
山から湧き出た水が川となり、和紙を漉き、土を潤し、海へと注ぐ。
海で育った命が人に届き、人の手が道具を生み、誰かの笑顔を照らす。
そしてそのすべてを、目に見えない優しい風が包み込み、次の駅へと運んでいく――。
最後の一線を引いた時、栞の額から大粒の汗がぽたりと落ちた。
木炭を握りしめた右手は真っ黒に汚れ、膝のエプロンには砂がびっしりとついていた。
けれど、和紙を見つめる栞の瞳は、まるで洗いたてのダイヤモンドのように、純粋な光を放っていた。
「……描けた」
栞の声が、砂丘の風に溶けた。
「私、描けたよ……おじいちゃん!」
あめつちが静かに歩み寄り、栞の横に膝をついた。
その神秘的な瞳に、朝陽が映り、一筋の清らかな涙が伝っていた。
「美しい……。まことに、天と地が結ばれたような美しさでございます」
あめつちは栞の真っ黒に汚れた手を、自らの両手で優しく包み込んだ。
「迷いはもう、どこにもございませんね。あなたの手から生まれたこの風は、必ずや京都の地で、多くの人々の心を照らすことでしょう」
朝陽を浴びて、砂丘の風紋と、一枚の白い和紙が、黄金色に輝いていた。
失われていた栞の魂の芯が、この山陰の乾いた風の中で、完全に蘇った瞬間だった。




