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第036話:親ガニの甲羅酒と、白ハタの塩焼き

岩美の山を降り、二人が向かったのは、鳥取の海の台所――賀露(かろ)港だった。

 夕暮れの港には、重油と干物の匂いが立ち込め、無数の集魚灯を積んだ底引き網漁船が波に揺れていた。

 あめつちが暖簾をくぐったのは、市場の片隅にある、年季の入った浜料理屋だった。

 木製の丸太椅子に腰掛けると、店主が手際よく、赤々と炭の熾(お)こった七輪をテーブルの中央に据えてくれた。


「さあ、栞さん。日本海の力強い恵みをいただきましょう」

 あめつちが注文したのは、この土地ならではの二つのご馳走だった。


 まず運ばれてきたのは、手のひらほどの小ぶりなカニの甲羅だった。

 **『親ガニ(セコガニ)の甲羅盛り』**。

 山陰で親ガニと呼ばれる松葉ガニのメス。甲羅の中には、黒真珠のようにプチプチと輝く外子(成熟卵)、鮮やかな茜色をした濃厚な内子(卵巣)、そして繊維の細かい甘いカニ身とカニ味噌が、これでもかとぎっしり詰め込まれていた。


「七輪に乗せなさいな。香ばしい匂いが立ったら食べ頃よ」

 網の上に甲羅を乗せると、パチパチと炭が爆ぜ、カニ味噌と甲羅が焼ける、たまらなく香ばしい匂いが立ち上った。

 スプーンで掬い、口に運ぶ。


「……っ!」

 外子のプチプチと弾ける小気味よい食感のあと、内子のウニのように濃厚なコクと、味噌の深みのある塩気が舌の上で爆発した。

 噛み締めるごとに、日本海の荒波が育んだ旨味が口いっぱいに広がる。


「そして、これをこうするのです」

 あめつちが、カニの身を少し残した甲羅の中に、徳利から鳥取の銘酒『辨天娘(べんてんむすめ)』の熱燗をとくとくと注ぎ入れた。

 ジュワッ……! と音を立てて酒が沸き立ち、甲羅の焼き目とカニ味噌の脂が黄金色の酒に溶け出していく。


「**甲羅酒**でございます。火傷をなさらぬよう、両手でどうぞ」


 熱い甲羅に唇をつけ、静かに啜る。

「…………っ!!」

 あまりの美味さに、栞は言葉を失った。

 完全無農薬の酒米を力強く醸した純米酒の芳醇な酸味が、焼けたカニ味噌の旨味と完璧に一つになり、喉から食道、胃の腑へと、熱い奔流となって流れ落ちていく。

 頭の芯まで痺れるような、圧倒的な生命の美味。


 続いて網の上で焼き上がったのは、**『白ハタの炭火塩焼き』**だった。

 粗塩を振って強火でじっくり焼かれたハタハタは、皮がパリパリと黄金色に焦げ、箸を入れると湯気とともに透明な脂がジュワッと滴り落ちる。

 骨離れの良いふっくらとした白身を頬張ると、上品な甘みと適度な塩気が、酒の旨味をどこまでも引き立てていく。


「美味しい……! こんなに美味しくて力強いもの、生まれて初めて食べました……!」

 栞が熱い息を吐き出すと、あめつちは満足そうに自分の盃を傾け、白魚のような指先で唇を拭った。


「美味なるものをいただくということはね、栞さん。その土地の土と水、そして神々の命を己の肉体に取り込むということでございます」

 あめつちの瞳が、七輪の炭火を映して神秘的に揺れた。

「これであなたの手にも、心にも、山陰の命が満ちました。……明日の朝、鳥取砂丘へまいりましょう。風が、あなたを待っておりますよ」


 夜の賀露港に、静かな潮騒が響いていた。

 栞の身体は、山陰の酒と海の恵みによって、芯から熱く満たされていた。

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