第035話:用の美を訪ねて、岩井窯の登り窯
青谷で五枚の和紙を漉き上げた翌日、あめつちは栞を連れて、鳥取県の東端――兵庫県境に近い岩美町の山あいへと向かった。
鳥取駅から車で三十分ほど山を登った静かな森の中。
赤松の薪が高く積まれ、風に乗って微かに心地よい木の煙の匂いが漂っている。
木立の奥に佇むのは、鳥取の民芸陶器を代表する名窯――『岩井窯』だった。
「紙の命に触れたあとは、土と火の命に触れていただきとうございます」
あめつちが敷居を跨ぎ、木造の美しいギャラリーへと栞を招き入れた。
白壁と太い梁に囲まれた展示室には、息を呑むほど温かい器たちが並んでいた。
手作りの耐熱土鍋、ぽってりとしたミルクピッチャー、深みのある藍色の角皿。
どの器も、美術館のガラスケースの中に飾られるような気取った美術品ではない。今夜の食卓で、熱々のシチューや煮魚を盛り付け、家族が笑顔で囲む姿が自然と目に浮かぶような、生活の匂いのする器たち。
「……あ」
栞は、窓際の木製棚の前で足を止めた。
そこに置かれていたのは、数客の珈琲カップだった。
深い飴色の釉薬の上に、乳白色の泥絵具で柔らかな波の文様が描かれている。
「このカップ……」
栞が息を呑むと、あめつちが隣に並び、優雅に微笑んだ。
「お気づきになりましたか? 瀬戸内の海辺――尾道の坂の上にある古い喫茶店でもね、このカップが使われているのですよ」
「えっ……尾道でも……?」
「ええ。少し前、東京から傷ついて逃げてきた若い女性が、そのカップを両手で包み、涙を流しながら温かい珈琲を飲んでいらっしゃいました」
あめつちは愛おしそうにカップの取っ手に触れた。
「この山陰の土と炎から生まれた器が、山を越え、遠い瀬戸内の海辺で、見知らぬ誰かの心を優しく温めている……。ものづくりとは、まことに不思議で、尊い奇跡でございますね」
「いらっしゃい」
奥の作業場から、作務衣を着た初老の陶芸家が笑顔で現れた。
「熱心に見てくれてるね。そのカップ、気に入ってくれたかい?」
「はい……! 土の温もりが、手のひらに吸い付くようです」
栞が答えると、陶芸家は深く頷いた。
「それが『用の美』というものだよ。鳥取には昔、吉田璋也という医者がいてね、柳宗悦らとともに民芸運動を起こしたんだ。『名もなき職人が作る、日々の暮らしのための道具にこそ、真の美が宿る』とな」
陶芸家は使い込まれた自分の手を見つめた。
「工芸家はね、自分のエゴや名前を売るために作っちゃいけない。使う人の暮らしを便利にし、温め、何十年も愛されるものを作る。自分を消して、素材と使う人に仕える……そこに、手仕事の真実があるんだよ」
――自分を消して、素材と使う人に仕える。
その言葉は、栞の心に決定的な楔を打ち込んだ。
自分を誇示するための卒業制作ではない。
誰かの部屋を優しく照らし、疲れて帰ってきた人の心をふっと解きほぐすような、そんな布と和紙の灯りを作りたい。
栞の迷いは、完全に消え去っていた。




