第033話:祖父の簀桁、命を漉き込む手
工房の土間は、ひんやりとした静寂と、濡れた木の香りに満ちていた。
中央に据えられているのは、大人が二人横になれるほどの巨大な木の水槽――「舟」だ。
勝部川の冷たい湧水が並々と湛えられ、その水面の下には、雪解け水のように純白な楮の繊維が、霧のように漂っていた。
水には、トロロアオイの根を叩き潰して抽出した透明な粘液――「ネリ」が混ぜ合わされ、わずかにとろみを持って光を反射している。
「これを使うんだ」
政吉親方が棚の奥から恭しく取り出してきたのは、一つの長方形の道具だった。
漆塗りの檜の木枠に、髪の毛のように細く割った真竹のヒゴを、絹糸で寸分の狂いもなく編み上げた道具――「簀桁」だ。
「源造さんが五十年間、毎日握り続けた桁だよ。取っ手の部分を見てごらん」
栞は息を呑んだ。
両手で握る木枠の左右が、祖父の親指と手のひらの形に、滑らかに窪んでいたのだ。
何万枚、何十万枚という紙を漉き続ける中で、木が人の皮膚のように削れ、手と一体化していった証拠だった。
「袖をまくりな。水は冷たいが、怖がるなよ」
「……はい!」
栞はシャツの袖を肩までたくし上げ、エプロンを締め直した。
あめつちが静かに歩み寄り、栞の背中にそっと手を当てた。
「呼吸をお整えなさいませ。水と対話し、木の命に身を委ねるのです」
栞は意を決して、両手を舟の水に浸けた。
「っ……!」
痛いほどの冷たさが、指先から手首、肘へと突き抜けた。初夏の陽気の中だというのに、地下深くから湧き出る勝部川の水は、まるで氷水のようだった。
だが、その冷たさは不思議と心地よく、皮膚の毛穴がキュッと引き締まり、研ぎ澄まされた感覚が意識を支配していく。
祖父の窪みに自分の指を合わせ、簀桁を両手で水平に構える。
「いくぞ。最初は『初水』だ。表面のゴミを流すように、手前から奥へサッとすくって、すぐに水を捨てる!」
ザパァッ、と水面に簀桁を沈め、すくい上げる。
竹ヒゴの隙間から余分な水が抜け、薄い繊維の膜が一瞬で張られる。
「次だ! 『本水』! 深く沈めて、前後に揺らす! 腕で振るんじゃない、腰で振れ!」
チャポン、チャポン、ザザザーッ……。
冷たい水をたっぷり抱え込んだ簀桁は、ずしりと重かった。
前へ、後ろへ。
波を立て、水の中で漂う楮の白い繊維を、縦へ、横へと複雑に絡み合わせていく。
最初は波が暴れ、紙の厚みが不揃いになりかけた。
「焦るな! 水と喧嘩するな、栞ちゃん! 水の流れたい方へ、桁を導いてやるんだ!」
政吉の声が飛ぶ。
栞は目を閉じた。
腕の力を抜き、肩の力を抜き、ただ水のリズムに耳を澄ませる。
チャポン、チャポン……。
その時だった。
かじかんだ栞の両手の上に、ふわりと、温かい別の大きな手のひらが重なったような気がした。
太く、節くれ立ち、木の香りがする手。
――祖父の手だ。
『栞、ええか。紙を漉く時はな、綺麗な紙を作ろうと思わんでええんや』
幼い頃、膝の上で聞いた祖父の声が、耳元で甦る。
『手紙を書く人の顔、障子の向こうで笑う人の顔を思い浮かべるんや。誰かを温めたいと思う心があれば、繊維は自然と結びついてくれるんやで』
波が、ピタリと鎮まった。
簀桁の上の水が均一な波紋を描き、竹ヒゴの隙間からスーッと下に落ちていく。
残されたのは――見事なまでに均一な厚みを持った、純白の濡れ紙だった。
「……できた」
栞が息を吐き出すと、政吉が目を見張り、太ももをピシャリと叩いた。
「見事だ……! 初手でこれだけの厚みを揃えやがった! 源造さんの血だ、間違いなく血が通ってるぞ!」
あめつちも、神職の袖を揺らしながら、嬉しそうに目を細めて拍手を送った。
「素晴らしい筋の通り方でございますね。繊維が、喜んで抱き合っております」
冷たさで赤く染まった栞の手のひらに、じんじんと熱い誇りが満ちていた。




