第032話:因州和紙の谷、冷たい湧水
倉吉を出た列車は、海岸線と山肌のわずかな隙間を縫うようにして走り、青谷駅へと到着した。
改札を出ると、潮の香りと、濃密な山の緑の匂いが同時に吹き抜けてきた。
「ここから山側へ、勝部川の谷を登ってまいりましょう」
あめつちに案内され、栞は川沿いの緩やかな坂道を歩いた。
勝部川の水は、息を呑むほど透き通っていた。
川底の丸い小石の一つひとつ、揺れる水草、そして身を隠す小魚の影までが、まるで宙に浮いているかのように鮮明に見える。
「因州和紙の歴史は、奈良時代――千三百年以上前の正倉院文書にまで遡りますのよ」
あめつちが歩みを緩めず、静かに語る。
「なぜこの谷で紙漉きが栄えたのか。それはね、この勝部川の伏流水が、鉄分や泥をほとんど含まない、奇跡のような極軟水だからでございます。清らかな水がなければ、雪のように白く、墨の吸い込みが良い極上の和紙は生まれません」
谷の奥へ進むと、杉林の間に、黒い瓦屋根と土壁の工房が何軒か見えてきた。
軒先には、水路から引かれた冷たい湧水が絶え間なく溢れ出し、トントン、トントンと、楮の樹皮を叩く木槌の重厚な音が、山あいに木霊している。
あめつちが足を止めたのは、ひときわ年季の入った木造平屋の工房の前だった。
軒下の看板には、掠れた墨文字で『長谷川和紙工房』と刻まれている。
「ごめんくださいまし」
あめつちが声をかけると、奥の作業場から、ゴム前掛けに長靴を履いた小柄な老人が出てきた。
白髪頭に、日焼けしてシワの刻まれた顔。だが、その両手は、長年水仕事に晒されてきた職人らしく、赤く引き締まり、異様なほど節くれ立っていた。
「はいはい、どなたかね……おや、あんたは……」
「政吉さん。お久しぶりでございますね」
「あめつちのお嬢ちゃんかい! 滅多に山の上まで来ねえあんたが、一体どうしたんだい?」
「今日は、特別なお客人を連れてまいりました。……源造さんの、お孫さんですよ」
政吉と呼ばれた老人の目が、見開かれた。
「……げ、源造さんの……!?」
「初めまして。藤堂栞と申します」
栞は深く頭を下げ、バッグの中から、出雲で修二から託されたあの和紙の端切れを両手で差し出した。
政吉は息を止め、震える指先でその紙片を受け取った。
工房から差し込む外の光に透かし、指の腹で表面をなぞり、匂いを嗅ぐ。
その瞬間、老人の目からポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……源造さんの紙だ」
政吉の声が微かに震えていた。
「この楮の繊維の絡み具合、トロロアオイの粘液の利かせ方……間違いねえ。わしが若い頃、何千回と横で見て、どうしても追いつけなかった、源造さんの紙だ……!」
政吉は紙片を胸に抱きしめ、天を仰いだ。
「そうか……孫娘さんが、わざわざ京都から……。源造さんはな、わしの生涯の師匠だったんだ。どんなに真冬の厳しい日でもな、『水が一番冷たく引き締まった時にしか、本当に強い紙は漉けねえ』って、笑いながら一日中、氷のような水に手をつけていた人だったよ」
政吉は栞の顔を、慈しむように見つめた。
「手を見せてごらん」
栞がおずおずと両手を差し出すと、政吉はその手を固く包み込んだ。
「……いい手だ。絵の具の匂いがする。あんたも、何かを作っている人間だな」
「はい。美大で、染織をやっています。でも……自分の作品に自信が持てなくなってしまって……。祖父の紙が生まれた場所を見たくて、ここまで来ました」
栞が真っ直ぐに訴えると、政吉はニッと力強く笑った。
「よし! なら、見てるだけじゃ駄目だ。あんたのその手で、源造さんの簀桁を握ってみな。じいさんの魂が、その水の中で待ってるはずだ!」




