第030話:神代の風、紺碧の気動車
出雲市駅の朝は、神話の国の名にふさわしく、どこか清浄な静寂に包まれていた。
改札口の屋根には出雲大社の大社造りを模した重厚な破風が掲げられ、ホームに立ち込める朝霧の向こうから、かすかに杉の葉を濡らす雨の匂いが漂っていた。
藤堂栞、二十二歳。
キャンバスバッグの肩紐を両手でぎゅっと握りしめながら、一番線ホームに立っていた。
バッグの底には、昨日、宍道湖畔の木工房『風樹舎』で親友同士の再会を果たした相沢雅人と、車椅子の木工職人・修二から託された宝物が入っている。
――亡き祖父・源造が五十年前、鳥取の山奥で漉き上げ、この出雲の地に遺した、手漉き因州和紙の端切れ。
古びて琥珀色に変色してなお、指先で触れると微かにざらりとした温かい繊維の毛羽立ちが伝わり、破ろうとしても決して破れない、驚くべき強靭さを保っていた。
「おじいちゃん……私、行くよ。おじいちゃんの漉いた紙が生まれた、あの谷へ」
京都の美大で工芸と染織を学ぶ栞は、数ヶ月後に迫った卒業制作のプレッシャーに押しつぶされ、筆を持つ手が震えるほどのスランプに陥っていた。
同級生たちは、海外の流行を取り入れた派手な現代アートや、奇抜な色彩の立体造形を次々と作り上げていく。それに比べて、自分の織る布や描く図案は、地味で、素朴で、誰の目にも留まらないのではないか――。
そんな迷いの中で見つけた、祖父の遺品の手紙。
そこに記されていたのは、見栄えを競うためではなく、誰かの日常の暮らしを照らすために作られた「用の美」の原点だった。
ふと、ホームのスピーカーから、神楽の笛を思わせる、雅やかで澄んだチャイムが響き渡った。
――ヒョオォォォォ……。
レールを滑るようにして入線してきたのは、二両編成の気動車だった。
車体の上半分は、日本海の深淵をそのまま写し取ったような、深く高貴な紺碧。
下半分は、波打ち際の白砂を思わせる、清らかな砂白色。
車体の中央には、出雲の神代文字や勾玉を模した金色のエンブレムが誇らしげに輝いている。
観光列車『あめつち』。
プシューッと静かに扉が開き、デッキから現れた人影に、栞は思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
漆黒の艶やかな黒髪を、古風な姫カットに切りそろえ、後ろ髪を出雲の白木綿としめ縄を模した優美な組紐で束ねている。
身に纏うのは、車体と同じ深い紺碧と純白を基調とした、巫女の千早を思わせるクラシカルなモダン和装ドレス。胸元には本物のめのう(瑪瑙)の勾玉が揺れている。
少女の切れ長の瞳は、山陰の深い森の湧水のようにどこまでも澄み渡り、年の頃は栞と同じか少し若く見えるが、その佇まいには千年の時を静かに見守り続けてきた神木のような神秘的な気品が宿っていた。
「……あ」
栞が立ち尽くしていると、少女は音もなく歩み寄り、栞の前で優雅に指先を揃えて一礼した。
「神話の国の風を抱く旅人さん。ようこそ、山陰の鉄路へ」
その声は、森の奥で湧き水が岩を打つような、涼やかで深い響きを持っていた。
「わたくしの名は『あめつち』。天と地の間を駆け、この山陰の土と水が育んだ命の記憶を運ぶ者でございます」
あめつちは栞の胸元に目を留めると、ふっと春の陽だまりのように目元を緩めた。
「そのポケットに宿る『風の切符』、そしてその鞄の中に眠る白き紙の息吹……すべて、この地が呼び寄せたご縁でございますね」
「あめつち、さん……」
「さあ、お乗りなさいませ。あなたの祖父君が命を削り、神々と対話した因幡の谷へ――ご案内いたしましょう」
あめつちに促され、栞は車内へと足を踏み入れた。
車内に入った瞬間、ツンと心地よい木の香りが鼻腔をくすぐった。
床には鳥取の智頭杉の無垢材が敷き詰められ、テーブルには島根の伝統工芸「隠岐の黒松」、そして天井の間接照明のシェードには、まさに祖父が遺したのと同じ、温かな繊維を透かした因州和紙が使われていた。
列車は重厚なディーゼルの重低音を響かせ、東――神々の出雲から、白き紙の眠る因幡の国へと、静かに滑り出した。




