第029話:カバンを軽くして、海辺の駅オフ
翌朝、午前九時。
まぶしい初夏の太陽が、尾道水道の水面をキラキラと銀色に輝かせていた。
尾道駅の一番線ホームに立つ唯の肩には、小さなキャンバストートバッグが一つだけ掛けられていた。
あの重たいスーツケースとノートパソコンは、今朝一番に駅前のコンビニから実家へと発送した。
両手が空き、背筋がすっと伸びている。
足元が驚くほど軽かった。重荷を手放すだけで、世界がこんなにも鮮やかに、軽やかに見えるものなのかと驚くほどだった。
トロンボーンのような澄んだ汽笛とともに、深青の観光列車『エトセトラ』が入線してきた。
デッキからひらりと降りてきたエトセトラは、軽装になった唯の姿を見るなり、切れ長の瞳を細めてニッと笑った。
「あら。ずいぶんと身軽になったじゃないの」
「はい。余計な荷物は、ぜんぶ捨ててきました」
唯が胸を張って答えると、エトセトラは満足そうに頷いた。
「それで、これからどうするの? 東京へ帰るのかしら」
「ううん、帰りません」
唯は振り返り、坂道に張り付く尾道の町並みを見上げた。
「昨日のゲストハウスのオーナーさんに相談したら、住み込みで掃除や朝食作りを手伝ってくれないかって言われて。……しばらくここで、働きながら暮らしてみようと思います。海を眺めて、猫と遊んで、自分のペースで新しい生き方を探してみます」
「ふふ、最高の寄り道じゃないの」
エトセトラは唯の胸元にそっと指を触れた。
ポケットから取り出した『風の切符』の表面に、レモンの実と波を象った、鮮やかなイエローのスタンプがパチンと浮かび上がった。
┌──────────────────┐
│ [風] 風 の 切 符 │
│ 発駅:立ち止まった海辺 │
│ 着駅:尾道(新しい息吹) │
│ │
│ [下車前途無効・夕凪の再生 完了]│
└──────────────────┘
「切符の魔法は、これでおしまいよ」
エトセトラはウインクした。
「でも、寂しくなったら、いつでも呉線の海を見においで。とびきり冷えたレモン酒と、とびきり甘いお菓子を作って待っているからね」
「ありがとう、エトセトラ。大好きだよ!」
唯は思わず両手を広げ、エトセトラの細い体をぎゅっと抱きしめた。
エトセトラも優しく背中に手を回し、ポンポンと叩いてくれた。
発車ベルが鳴り響く。
深青の車体が滑らかに動き出し、エトセトラはデッキから優雅に手を振った。
トロンボーンの汽笛が尾道水道に吸い込まれ、列車は再び西の海へと旅立っていく。
見送った唯の顔に、柔らかな初夏の潮風が吹き抜けた。
胸いっぱいに息を吸い込む。
苦しくない。痛くもない。
ただ、甘く、爽やかな風が、唯の全身を満たしていた。
***
【幕間:下関駅・黄昏の引き込み線】
本州の西の果て、下関駅の夕暮れ。
関門海峡からの潮風が吹き抜けるホームの片隅に、大正ロマンを思わせる絣の着物に袴を穿いた少女が佇んでいた。
鉄娘『はなし』――山陰の歴史と物語を紡ぐ、文学少女の付喪神。
彼女は抱えていた革表紙の文庫本を静かに閉じると、小首をかしげて微笑んだ。
「瀬戸内の夕凪が、迷い子の心を解きほぐしたようですね」
彼女の視線は、関門海峡を越え、日本海側の山陰本線へと向けられていた。
「さて……次は、因州和紙の白き手紙と、神々の鎮まる鳥取路。あめつちさんの出番のようですよ」
夕陽に照らされた二条のレールが、どこまでも、どこまでも光の帯となって伸びていた。
風の切符を持つ旅人たちの物語は、決して途切れることなく、次の誰かのもとへと走り続けている。
(第一周遊 第三章『エトセトラと黄金色の夕凪』 了)
(第一周遊 第四章『あめつちと白き因州和紙』へつづく)




