第028話:夜風のゲストハウス、畳の匂い
その夜、唯はエトセトラに紹介された尾道の坂の上にある古いゲストハウスに宿をとった。
大正時代に建てられた別荘を改装したという木造二階建ての宿。
ギシギシと軋む急な階段を上がり、通されたのは、角部屋の四畳半の和室だった。
窓を開けると、夜の尾道水道が、まるで漆黒の絹織物のように静まり返っていた。
対岸の向島のドックのクレーンが、オレンジ色のナトリウム灯に照らされて巨大な恐竜のように佇んでいる。時折、ポンポンとエンジン音を響かせて最終の渡船が海を渡り、波の光が水面に揺れる。
初夏の夜風が吹き抜けるたびに、青畳の懐かしい草の香りと、ほんのりとした潮の匂いが部屋を満たした。
唯は畳の上に大の字になって寝転がった。
「……はぁぁぁ……」
胸の底から、深い、温かな溜息が漏れた。
ふと視線を横に向けると、部屋の隅に置いたスーツケースが目に入った。
重さの原因だった、会社から支給されていたノートパソコン。
東京にいた頃は、枕元にパソコンを置き、夜中にメールが届くたびに飛び起きてキーボードを叩いていた。
唯は体を起こし、パソコンを取り出した。
黒い無機質な金属の冷たさ。
けれど、もう以前のような恐怖や焦燥感は湧いてこなかった。
「……もう、いいよね」
唯はパソコンを開くことなく、丁寧に布の袋へと仕舞い込んだ。
明日、実家へ宅急便で送ってしまおう。会社の返却物も、退職の手続き書類と一緒に郵送すればいい。もう、自分を縛るものは何もないのだ。
代わりに、小さな文机の上に並べたものがあった。
忠海の元船大工・辰造さんがくれた、楠の小さな木舟。
吉名の段々畑でトヨさんがくれた、傷だらけだけど甘い瀬戸田のレモン。
城崎温泉の足湯で料理人の青年がくれた、生野の栃餅の包み紙。
そして――あの『風の切符』。
枕元に灯した小さな間接照明の光が、木舟とレモンを温かく照らし出す。
唯はスマートフォンの電源を長押しし、完全にオフにした。
目覚ましのアラームも、明日のスケジュールも、何一つ設定しない。
朝、自然と目が覚めたときに起きればいい。
散歩をしたければ海へ行けばいいし、眠たければ一日中畳の上でゴロゴロしていればいい。
「おやすみなさい、私」
布団に潜り込み、目を閉じると、遠くの波の音が心地よい子守唄のように響いていた。
それは、何ヶ月ぶり、いや何年ぶりかの、何の重圧もない、真実の安らかな眠りだった。




