第027話:黄金色の夕凪、何もしない贅沢
列車がふっと速度を落とした。
海と線路を隔てる防波堤の切れ目、小さな入り江のカーブで、エトセトラの車体が静かに停止した。
「見てごらんなさい、唯」
エトセトラが窓を少しだけ開けた。
「瀬戸内海の、一日で一番贅沢な時間が始まったわ」
唯は息を呑み、立ち上がって窓辺へと身を乗り出した。
――夕凪。
瀬戸内海特有の、昼の海風と夜の陸風が入れ替わる一瞬。
風が完全に止まり、さざ波すら消え失せて、海が巨大な一枚の鏡と化す現象だった。
音という音が、世界から完全に消え去っていた。
カモメの羽ばたきも、波の打ち寄せる音も、木の葉のざわめきすら届かない。
沈みゆく巨大な夕陽が、天頂の深い紫から地平線の燃えるような朱色までを、寸分の狂いもなく水面に映し出している。
空と海の境界線が溶け合い、まるで列車そのものが、黄金色の宇宙の中にぽつんと浮かんでいるかのような錯覚。
「……すごい」
唯の口から、掠れた声がこぼれた。
「音が……何もない……」
「そうよ。何もなくていいの」
エトセトラが唯の隣に並び、夕陽の光に染まった横顔で静かに囁いた。
「人間はね、何かを生産しなきゃいけないとか、役に立たなきゃいけないとか、自分を追い詰めてばかりいるけれど……この海をごらんなさい。何一つ動いていないのに、こんなにも満ち足りて、息を呑むほど美しいじゃないの」
エトセトラの言葉が、夕凪の静寂の中に吸い込まれていく。
唯は両手を胸に当てた。
トクン、トクンと、自分の心臓が温かく鼓動しているのが聞こえる。
誰の評価も要らない。
数字の目標も、他人の期待も、立派な肩書も要らない。
ただ、この世界に生まれ、美味しいものを食べ、美しい夕陽を見て、生きている。
それだけで、自分は最初から満たされていたのだ。
「私……生きてて、いいんだ」
唯の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
もう悲しい涙ではなかった。
自分という存在を、心の底から許し、抱きしめることができた歓喜の涙だった。
「当たり前じゃないの」
エトセトラがそっと唯の肩を抱き寄せた。
「生きているだけで、あなたは満点よ。これからはね、あなたの心のペースで、ゆっくり歩いていきなさいな」
太陽の最後の光の筋が、水平線の向こうへと静かに沈んでいった。
夕凪の海が、黄金色から深い群青のグラデーションへと、穏やかに夜の帳を受け入れていくのだった。




