第026話:音戸の瀬戸、黄昏のカクテル
列車が再び西へと走り出した頃、西の空がゆっくりと黄金色から茜色へと表情を変え始めていた。
呉の海沿い。車窓の彼方に、海峡を跨ぐ真紅のアーチ橋――音戸大橋の優美なシルエットが浮かび上がっている。
かつて平清盛が沈む夕日を金の扇で招き返し、わずか一日のうちに切り拓いたという伝説が残る、狭い海峡「音戸の瀬戸」だ。
「さあ、本日最後の特別な一杯をお作りしましょう」
エトセトラがバーカウンターの奥に立ち、銀色のシェイカーを手に取った。
夕暮れの斜光がカウンターに差し込み、並んだグラスの縁を琥珀色に照らし出している。
エトセトラが取り出したのは、美しい藍色のボトルだった。
「広島の廿日市で生まれたクラフトジン――『桜尾(SAKURAO)』よ。広島産のレモンピール、ネーブル、柚子、緑茶、そして牡蠣の殻までボタニカルに使った、瀬戸内の魂そのもののようなお酒なの」
氷を満たしたミキシンググラスにジンを注ぎ、瀬戸内ブラッドオレンジのシロップと、少しのビターズを合わせる。
バースプーンが手早く氷を回し、カラン、カランと静かな音を響かせる。
細身のフルートグラスに注がれると、グラスの底は深い真紅、中間は黄金色、そして上部は澄んだ夕暮れの紫――まるで今、窓の外に広がっている空と海をそのまま閉じ込めたような、奇跡のようなグラデーションが浮かび上がった。
「『トワイライト・セト』。夕暮れを惜しむ人のためのカクテルよ」
グラスの縁には、小さくカットされたレモンのピールが添えられている。
唯はそっとグラスを持ち上げた。
「……綺麗。飲むのがもったいないくらいです」
「乾杯しましょう、唯。……誰のためでもない、ここまで一生懸命走ってきた、あなた自身のために」
チリン、と澄んだクリスタルの音が車内に響いた。
唯はグラスに口をつけ、静かに傾けた。
「……っ」
冷たい液体が喉を通った瞬間、幾重にも重なる芳醇なアロマが鼻腔を駆け抜けた。
針葉樹のようなジンの清らかな香りと、柑橘の甘酸っぱさ、そして微かなほろ苦いハーブの余韻。
アルコールが胃の腑へと届くと、ポッと温かい火が灯り、張り詰めていた肩の筋肉が、完全に力を失って脱力していくのが分かった。
「お酒ってね、現実から逃げるために飲むものじゃないのよ」
エトセトラは自らのグラスを傾けながら、遠い目を海に向けた。
「立ち止まって、今日という一日を無事に生き抜いた自分を、ぎゅっと抱きしめてあげるために飲むものなの。……よく頑張ったわね、唯」
その一言で、唯の心の中にあった最後の結び目が、ふっと解けた。
そうだ。自分は頑張ってきた。
逃げ出したんじゃない。限界まで戦って、力尽きる前に、命を守るために立ち止まったのだ。
茜色のカクテルを飲み干すと、唯の胸の奥は、これまで感じたことのない深い安らぎで満たされていた。




