↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/214

第026話:音戸の瀬戸、黄昏のカクテル

列車が再び西へと走り出した頃、西の空がゆっくりと黄金色から茜色へと表情を変え始めていた。

 呉の海沿い。車窓の彼方に、海峡を跨ぐ真紅のアーチ橋――音戸(おんど)大橋の優美なシルエットが浮かび上がっている。

 かつて平清盛が沈む夕日を金の扇で招き返し、わずか一日のうちに切り拓いたという伝説が残る、狭い海峡「音戸の瀬戸」だ。


「さあ、本日最後の特別な一杯をお作りしましょう」

 エトセトラがバーカウンターの奥に立ち、銀色のシェイカーを手に取った。

 夕暮れの斜光がカウンターに差し込み、並んだグラスの縁を琥珀色に照らし出している。


 エトセトラが取り出したのは、美しい藍色のボトルだった。

「広島の廿日市(はつかいち)で生まれたクラフトジン――『桜尾(SAKURAO)』よ。広島産のレモンピール、ネーブル、柚子、緑茶、そして牡蠣の殻までボタニカルに使った、瀬戸内の魂そのもののようなお酒なの」


 氷を満たしたミキシンググラスにジンを注ぎ、瀬戸内ブラッドオレンジのシロップと、少しのビターズを合わせる。

 バースプーンが手早く氷を回し、カラン、カランと静かな音を響かせる。

 細身のフルートグラスに注がれると、グラスの底は深い真紅、中間は黄金色、そして上部は澄んだ夕暮れの紫――まるで今、窓の外に広がっている空と海をそのまま閉じ込めたような、奇跡のようなグラデーションが浮かび上がった。


「『トワイライト・セト』。夕暮れを惜しむ人のためのカクテルよ」


 グラスの縁には、小さくカットされたレモンのピールが添えられている。

 唯はそっとグラスを持ち上げた。

「……綺麗。飲むのがもったいないくらいです」

「乾杯しましょう、唯。……誰のためでもない、ここまで一生懸命走ってきた、あなた自身のために」


 チリン、と澄んだクリスタルの音が車内に響いた。

 唯はグラスに口をつけ、静かに傾けた。


「……っ」

 冷たい液体が喉を通った瞬間、幾重にも重なる芳醇なアロマが鼻腔を駆け抜けた。

 針葉樹のようなジンの清らかな香りと、柑橘の甘酸っぱさ、そして微かなほろ苦いハーブの余韻。

 アルコールが胃の腑へと届くと、ポッと温かい火が灯り、張り詰めていた肩の筋肉が、完全に力を失って脱力していくのが分かった。


「お酒ってね、現実から逃げるために飲むものじゃないのよ」

 エトセトラは自らのグラスを傾けながら、遠い目を海に向けた。

「立ち止まって、今日という一日を無事に生き抜いた自分を、ぎゅっと抱きしめてあげるために飲むものなの。……よく頑張ったわね、唯」


 その一言で、唯の心の中にあった最後の結び目が、ふっと解けた。

 そうだ。自分は頑張ってきた。

 逃げ出したんじゃない。限界まで戦って、力尽きる前に、命を守るために立ち止まったのだ。

 茜色のカクテルを飲み干すと、唯の胸の奥は、これまで感じたことのない深い安らぎで満たされていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。