第025話:坂の上の喫茶店、民芸のカップ
列車が尾道と呉を結ぶ折り返し地点で、エトセトラは唯を連れて、尾道の坂道の迷路へと足を踏み入れた。
千光寺へと続く急な石段。
車もバイクも通れない細い路地を、人懐っこい三毛猫たちが横切り、軒下には干された洗濯物が潮風に揺れている。
「ちょっと喉を潤しに、私のお気に入りの場所へ寄り道しましょう」
エトセトラが案内してくれたのは、石段の中腹、木々の緑に埋もれるようにして建つ築百年の古民家カフェ『帆風』だった。
使い込まれた板張りの縁側の席に座ると、眼下には尾道水道の碧い海と、向島のドック、そしてしまなみ海道の白い橋梁が一望できた。
風が吹き抜けるたびに、チリンと風鈴が鳴る。
「いらっしゃい、エトセトラさん。今日も素敵なお連れさんね」
白髪を上品にまとめた女性店主が、淹れたての珈琲を二つのカップで運んできた。
「……あ」
唯は思わず、そのカップに目を奪われた。
東京のカフェでよく見る、量産型の白い磁器ではない。
ポッテリとした厚みのある陶器で、深い飴色の釉薬の上に、乳白色の泥絵具で柔らかな波のような文様が描かれている。
両手で包み込むように持つと、土のざらりとした温もりが手のひらに吸い付くようにフィットした。
「このカップ……すごく温かいですね。指先から、じんわり熱が伝わってきます」
唯が呟くと、店主は嬉しそうに目を細めた。
「お目が高いわね。鳥取の山奥にある『岩井窯』という窯元で焼かれた民芸の器なのよ」
「鳥取の……民芸……」
「そう。山陰の粘土を使い、登り窯の薪の炎で何日もかけて焼かれた器なの。民芸の器ってね、『用の美』って言われて、誰かの日常の中で使われてこそ一番美しく輝くものなのよ。飾っておくためじゃなく、疲れた人が温かいお茶を飲んで、ほっと一息つくために作られた器なの」
店主の言葉を聞きながら、唯はコートのポケットに手を伸ばした。
指先に触れたのは、城崎の足湯で料理人の青年――涼太からもらった、生野の栃餅の包み紙だった。
何日もかけてアクを抜いた、山の栃の実の餅。
竹原の蔵元が、時間をかけて米から醸した純米酒。
海風に傷つきながら、自分の力で甘くなった瀬戸田のレモン。
忠海の老人が、ナイフ一本で削り出した楠の小さな舟。
そして、山陰の土と炎から生まれた、この温かい珈琲カップ。
「……繋がってるんだ」
唯の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
「私が知らないだけで、日本中のあちこちで、誰かが誰かのために時間をかけて、温かいものを作ってくれている……。私は東京のビルの中で、一人で戦っているつもりだったけれど……世界は、こんなにも優しい手仕事で満ちていたんだ……」
珈琲を一口すする。
深煎りの豆の香ばしい苦味と、後味に広がる柔らかな甘みが、胃の腑へと染み渡っていく。
エトセトラは何も言わず、ただ優雅に足を組み、唯の横顔を慈しむように見つめていた。
「さあ、日暮れが近づいてきたわ」
エトセトラが静かに立ち上がった。
「いよいよ、瀬戸内が一番美しい魔法の時間――夕凪へ向かいましょう」




