第023話:島風のレモン畑、黄色い木漏れ日
竹原を出た列車は、吉名のあたりで海沿いの小さな信号場に一時停車した。
「ちょっと風に当たりましょう。見せたい場所があるの」
エトセトラに促され、唯は線路脇の小さな踏切を渡った。
そこから続く細い石段を登っていく。両脇には、石垣を積んだ急斜面の段々畑が広がっていた。
潮風が吹き抜ける丘の上。
見渡す限り、濃い緑の葉を茂らせた果樹が斜面を埋め尽くしている。枝のあちこちに、黄色く色づき始めたばかりのレモンと、まん丸な八朔の実が、太陽の光を浴びて鈴なりに実っていた。
木々の間を歩くだけで、青い葉の放つ清々しい香りと、どこかジャスミンにも似た甘いレモンの花の香りが鼻腔をくすぐる。
「うわぁ……! すごい、一面のレモン畑……!」
「瀬戸内の島々はね、温暖で雨が少なくて、一年中潮風がミネラルを運んでくるの。柑橘にとっては、これ以上ない天国なのよ」
「おーい! エトセトラちゃんじゃないかい!」
畑の上の方から、元気のいい声が降ってきた。
手ぬぐいを頭に巻き、日焼けした顔に満面の笑みを浮かべた小柄な女性が、背負い籠を揺らしながら下りてきた。
「トヨさん! 今日もいい実がついてるわね」
「おうよ! そっちのお嬢ちゃんは誰かね? ずいぶんと色白のべっぴんさんじゃなあ」
トヨさんと呼ばれた農家の女性は、唯の手を取ると、腰の道具袋から手際よく果物ナイフを取り出した。
そして、傍らの木からひときわ大きなレモンをもぎ取ると、皮ごと真っ二つに切って差し出した。
「ほれ、齧ってみんさい! うちのはノーワックスじゃから、皮ごと食うのが一番美味いんよ」
唯はおずおずと口を開け、黄色い果肉に歯を立てた。
「……っ!」
じゅわり、と温かい果汁が溢れ出した。
酸っぱい。けれど、その酸味の奥から、驚くほど濃厚でまろやかな甘みが追いかけてくる。そして、皮を噛み締めたときに広がる、爽快な苦味と豊かなアロマ。
「酸っぱいけど……甘いです! それに、皮が全然苦くない……!」
「そうじゃろ!」
トヨさんは嬉しそうに腰に手を当てて笑った。
「レモンってのはな、寒さや強い海風に当たると、実に小さな擦り傷ができるんよ」
トヨさんはレモンの表面にある、茶色い小さな引っかき傷を指先でなでた。
「東京のスーパーじゃ、こういう傷のある実は『訳あり』言うて安く買い叩かれるらしいけどな。本当は逆なんよ。風に吹かれて傷ついたレモンはな、身を守ろうとして、自分の力でビタミンと糖分をぎゅうっと凝縮させるんじゃ。傷がある奴ほど、中身は濃うて甘いんよ」
――傷がある奴ほど、中身は濃くて甘い。
その言葉が、唯の心の奥深くにストンと落ちた。
挫折した自分。立ち止まってしまった自分。会社から逃げ出し、傷だらけになった自分。
そんな自分は「欠陥品」なのだとずっと思い込んでいた。
けれど、このレモンと同じように、傷ついた時間は決して無駄じゃなかったのかもしれない。その痛みを知ったからこそ、人の優しさに涙し、風の匂いに足を止めることができるようになったのだから。
「トヨさん、これ……本当に美味しいです」
唯が笑うと、トヨさんはシワだらけの手で唯の背中をバシッと叩いた。
「ええ笑顔じゃ! 傷なんか、美味しくなるための勲章よ。しっかり胸張って、風に吹かれときゃええんじゃ!」
トヨさんにもらったレモンを胸に抱き、唯はエトセトラとともに列車へと戻った。
海を見下ろす丘の上から吹き下りる風が、唯の髪を柔らかくなびかせていた。




