第022話:竹原の町並み、塩と酒の記憶
忠海を出た列車は、十五分ほどで竹原駅へと滑り込んだ。
「ここも絶対に寄り道しなきゃいけない街よ。『安芸の小京都』と呼ばれる、塩とお酒の町よ」
エトセトラに手を引かれ、駅から少し歩くと、まるで江戸時代へタイムスリップしたかのような美しい町並みが現れた。
竹原町並み保存地区。
本瓦葺きの屋根に、白壁と格子窓が連なる風情ある通り。電柱は地中に埋め込まれ、軒下には涼やかな竹風鈴がチリンと鳴っている。
かつて瀬戸内海の塩田開発と、その良質な塩と地下水を生かした酒造りで栄えた豪商たちの屋敷が、今も大切に息づいているのだ。
「いい匂いがするでしょう? 麹と、杉の樽の匂い」
エトセトラが指差したのは、大きな杉玉が軒先に掲げられた、享保年間に創業したという老舗酒蔵の黒門だった。
蔵の奥庭にある、ケヤキの梁がむき出しになった趣ある食事処の座敷に通される。
「旅のお嬢さんに、竹原の歴史を丸ごと味わってもらいましょう」
運ばれてきたのは、大きな丸い白い塊と、木槌だった。
「……これ、何ですか? 大きな石……?」
唯が目を丸くすると、エトセトラはくすりと笑って木槌を手渡した。
「叩いてごらんなさい。優しくね」
唯が木槌を振り下ろすと、コン、と小気味よい音がして、白い塊に亀裂が入った。
パカッと二つに割れた瞬間――。
「……っ!!」
立ち上ったのは、息を呑むほど濃厚な、磯とハーブの香気をまとった純白の湯気だった。
割れた白い殻――それは、竹原の塩田で採れた粗塩を卵白で練り固めたものだった。
その塩の覆いの中から現れたのは、肉厚な昆布に包まれ、丸ごと一匹蒸し焼きにされた、見事な**瀬戸内の真鯛**だった。
「**『瀬戸内真鯛の塩釜焼き』**よ。塩の鎧の中で蒸されることで、鯛の旨味と水分が一切逃げずに凝縮されるの」
エトセトラが手際よく昆布をめくり、小皿にふっくらとした鯛の身を取り分けてくれた。
薄い桜色の皮の表面には、滴るような脂が輝いている。
箸で身をほぐし、口に運んだ。
「…………っ!」
舌の上に載せた瞬間、弾力のある白身がホロリとほどけた。
塩分が尖っていない。まろやかで奥深い塩のミネラルが、真鯛が本来持っている上品で力強い甘みを、極限まで引き出している。噛み締めるごとに、瀬戸内の豊かな潮流を泳ぎ抜いた魚の旨味が、ジュワッと口いっぱいに溢れ出す。
「そして、これよ」
エトセトラが小さなガラスの片口から、薄濁りの酒をぐい呑みへと注いだ。
「竹原の蔵元が醸した、無濾過の純米生原酒。地元の酒米と、軟水でゆっくり低温発酵させたものよ」
ぐい呑みを傾ける。
とろりとした口当たりとともに、熟れた果実のような芳醇な香りと、どっしりとした米の旨味が舌を包み込んだ。
真鯛の塩気と脂を、酒の深い酸味が優しく受け止め、喉の奥へと滑らかに洗い流していく。
一口ごとに、五臓六腑が温かな幸福感で満たされていく。
「……すごい。力強いのに、すごく優しいです」
「そうでしょう?」
エトセトラは嬉しそうに自分のグラスにも酒を注ぎ、一口喉を鳴らした。
「酒造りも、塩作りもね、決して急いじゃいけないの。麹菌が米を糖に変え、酵母がアルコールを醸すのを、蔵人はただ信じて待つだけ。一秒でも早く出荷しようと温度を上げたら、酒は酸っぱくなって台無しになっちゃうわ」
エトセトラは格子戸の隙間から差し込む、柔らかな初夏の陽だまりを見つめた。
「世の中は『タイパ』だの『効率』だのって、時間を縮めることばかり競い合っているけれど……時間をかけてゆっくり醸されたものだけが、本当に人の心を温めるのよ。あなたも、今はじっくり発酵している最中。焦らなくていいのよ」
唯はぐい呑みを両手で包み、目を閉じた。
急ぐ必要なんて、どこにもない。
この町を流れる穏やかな時間のように、ゆっくりと自分を取り戻せばいい。
竹原の澄んだ風が、風鈴を優しく鳴らしていった。




