第021話:忠海の風、元船大工の教え
列車は忠海駅で、対向列車との待ち合わせのために長めの停車時間をとった。
「海風を吸いに行きましょう。あそこの港は、とても気持ちがいいのよ」
エトセトラに連れられ、唯は改札を出て港へと続く一本道を歩いた。
忠海港は、沖合に浮かぶ「うさぎの島」こと大久野島へ渡るフェリーの発着所として知られている。観光客たちが色とりどりのキャリーバッグを引いて桟橋へと向かう中、エトセトラは波止場の先端にある木製ベンチへと唯を案内した。
そこには、一人の老人が座っていた。
日に焼けた深い銅色の肌に、彫りの深い顔立ち。白髪交じりの短髪にハンチング帽をかぶり、肥後守と呼ばれる折りたたみナイフで、小さな楠の角材を器用に削っている。
足元には、細かな木の削り屑が雪のように積もり、香ばしい楠の芳香が潮風に混じって漂っていた。
「よう、辰造さん。今日もいい船ができたかしら?」
エトセトラが親しげに声をかけると、老人はナイフの手を止め、クシャッと顔を綻ばせた。
「おお、エトセトラか! 今日も綺麗な客人を連れてきたのう」
「ええ。東京から、少し息が切れちゃったお嬢さんよ」
辰造と呼ばれた老人は、唯の強張った肩と、まだ赤く腫れた目元をじっと見つめた。
そして、何も言わずに削り終えたばかりの木片を、唯の手のひらにポンと乗せた。
「ほれ、持ってみな」
「……あ」
それは、手のひらにすっぽりと収まる、長さ十センチほどの小さな木造の和船だった。
ヤスリもかけられていないのに、指先で触れると吸い付くように滑らかで、丸みを帯びた船底がなんとも愛らしい。
「楠の木じゃ。水に強くて、腐らん。……どうじゃ、軽かろう」
「はい……すごく温かいです」
「わしはな、若い頃は因島や呉の造船所で、何万トンもある巨大タンカーの鋼鉄の図面を引いとった船大工よ。でもな、年取って引退してからは、こうして手のひらの舟を削るのが一番楽しくてのう」
辰造は波止場から、穏やかな瀬戸内海を見つめた。
「娘さん。船ってのはな、港を出たら目的地まで全速力で突っ走るもんじゃと思うとるじゃろ」
「……はい。早く、効率よく着くのが正しいと思っていました」
「ありゃ大間違いよ」
辰造はカカと笑った。
「常に最大出力でスクリュー回し続けたらな、どんな最新のディーゼルエンジンも過熱して焼き付く。船体にヒビが入って、あっという間に海の底じゃ。本当のベテラン船長はな、潮の流れを読むんじゃ。追い潮のときは機関をゆるめ、潮止まりのときは波に任せてプカプカ浮いて休む。その『浮かんで待つ時間』があるからこそ、何万海里もの大洋を無事に渡りきれるんじゃよ」
老人の言葉が、唯の胸にじわりと染み込んできた。
自分は、ずっと全速力でスクリューを回し続けていたのだ。燃料が切れ、煙を噴き上げているのに、止まることを恐れてアクセルを踏み続けていた。
「休んで、いいんでしょうか……」
「当たり前よ!」
辰造は太い手で、唯の頭をぽんと叩いた。
「わしの先祖はな、遠く長門や萩の日本海から、木の船を操ってこの瀬戸内へ渡ってきた船乗りじゃ。荒波の日本海も、穏やかな瀬戸内も、海の上じゃ無理を通した奴から先に沈む。今は潮止まりじゃ。エンジン切って、美味いもん食うて、プカプカ浮いときゃええ」
唯は小さな木舟を、両手でギュッと握りしめた。
「……はい。プカプカ、浮いてみます」
「おう、ええ返事じゃ!」
汽笛がポォと鳴り、発車時刻を告げる。
「ありがとう、辰造さん。また来るわね」
「気をつけてな! 娘さん、ええ面構えになったぞ!」
波止場を後にする唯の足取りは、先ほどよりもずっと軽くなっていた。
ポケットの中には、城崎でもらった栃餅の包み紙と、忠海でもらった小さな木舟。
二つの温かいお守りが、唯の歩みを優しく支えていた。




