第020話:バーカウンターの車窓
車内に足を踏み入れた瞬間、唯は思わず息を呑んだ。
そこは、列車の座席というよりも、洗練された海辺のリゾートホテルのラウンジだった。
木目を基調とした落ち着いた空間。窓際には、瀬戸内海の多島美をゆったりと眺められるよう、海側に傾けて配置された回転式の一人掛けソファが並んでいる。
車両の中央には、黒御影石と真鍮で仕上げられた本格的なバーカウンターが設えられ、奥の棚には広島や岡山の地酒、クラフトジン、地ワインのボトルがずらりと並んでいた。
「窓際の特等席へどうぞ」
エトセトラは唯を窓際のソファへ促すと、自らはバーカウンターの中へと滑り込んだ。
白いクロスでグラスをキュッキュッと磨き上げる手つきは、どこまでも優雅で無駄がない。
「まずは、喉の渇きを潤しましょうか。あなたの喉、砂漠みたいにカラカラよ」
「え……あ、はい……」
言われてみれば、朝から水の一口も飲んでいなかった。
エトセトラは銀色のメジャーカップを指先で回し、ボウルに盛られた青々とした果実を一つ手に取った。
丸々とした、初夏の早摘みグリーンレモン。包丁を入れた瞬間、シュッと霧のような果汁が弾け、車内いっぱいに鮮烈な柑橘の芳香が広がった。
「瀬戸田の無農薬レモンよ。防腐剤もワックスも使っていないから、皮ごと全部いただけるの」
グラスの底にレモンを丸ごと半個分絞り入れ、すり鉢で軽く叩いた摘みたてのスペアミントの葉を加える。
自家製の粗糖シロップをひと垂らしし、クラッシュアイスを山盛りに注ぐと、勢いよく炭酸水で満たした。
バースプーンが氷と触れ合い、カランコロンと涼やかな音を立てる。
仕上げに、薄切りのレモンスライスとミントの小枝を飾り、コースターとともに唯のテーブルへ置かれた。
「お待たせいたしました。『瀬戸内生搾りレモンのスパークリング・モヒート』。アルコールは入っていないから、安心してお飲みなさい」
透き通るような緑と黄色のグラデーション。グラスの表面には、細かな水滴がびっしりと結露している。
唯は両手でグラスを持ち上げ、ストローに口をつけた。
「……っ!」
吸い上げた瞬間、冷涼な炭酸の泡とともに、鮮烈な酸味と香りが口いっぱいに弾け飛んだ。
だが、市販のレモン果汁のようなツンとした刺激や、舌に残る嫌なえぐみは一切ない。
太陽の光をたっぷり浴びた果肉の、瑞々しく豊かな甘酸っぱさ。皮のオイルから漂う清々しいビターな香り。そして、ミントの清涼感が喉をスーッと通り抜け、胸のつかえを一気に洗い流していく。
「……美味しい……っ」
ごくり、ごくりと喉を鳴らして飲み干した。
最後の一滴を飲み干した時、唯の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「あらあら、泣き虫なお客さまだこと」
エトセトラが手渡してくれたリネンのハンカチを握りしめ、唯はしゃくりあげた。
「私……何者にもなれなかったんです」
誰にも言えなかった本音が、溢れ出して止まらなかった。
「学生の頃からずっと、誰よりも努力して、誰よりも早く出世して、社会に認められる『特別な誰か』にならなきゃいけないって思ってました。でも、追いつけなくなって……壊れて……何もかも投げ出して逃げてきちゃって……。今の私には、何の肩書も、価値もないんです……」
エトセトラはカウンター越しに肘をつき、唯の涙を静かに見つめていた。
そして、ふっと微笑んだ。
「何者かって、何よ? 肩書がないと、息をしちゃいけないのかしら」
「え……?」
「窓の外をごらんなさいな」
エトセトラが指差した車窓。
列車は三原を抜け、いよいよ海沿いを走る呉線へと入っていた。
どこまでも穏やかで、青く澄んだ瀬戸内の海。その水面に、大小さまざまな島々が、緑の帽子をかぶったようにぽこぽこと浮かんでいる。
「あの島々をごらんなさい。あの子たちはね、誰かに褒められるためでも、何者かになるためでもなく、ただそこに浮かんでいるだけよ。風が吹けば揺れ、雨が降れば濡れ、お日様が出れば光る。……それだけで、こんなにも美しいじゃないの」
エトセトラは唯の濡れた頬を、温かい指先で優しく拭った。
「あなたも同じよ、唯。生きているだけで、ちゃんとここに居場所があるの。今日はただ、海を眺めて、美味しいものを食べて、何もしない自分を許してあげなさいな」
列車は穏やかな波打ち際に沿って、トントンと軽快なリズムを刻みながら、さらに西へと進んでいった。




