第019話:坂道と海、止まった秒針
電車のドアが開いた瞬間、ぶわりと鼻腔をくすぐったのは、日なたの匂いと、少し甘い潮の香りだった。
佐倉唯、二十八歳。
大きなスーツケースのキャスターをガラガラと鳴らしながら、尾道駅の改札を抜けた。
南へ向かって開けた駅前広場。そのすぐ目の前に、驚くほど近く、川のように穏やかな海が横たわっていた。
尾道水道だ。
対岸の向島との間を行き交う小さな渡し船が、ポンポンポン……と長閑なディーゼル音を響かせている。
カモメが一羽、潮風に乗って青空を滑空し、遠くの造船所からカンカンとリズミカルに鉄を叩く乾いた音が届いていた。
「……海だ」
唯はその場に立ち尽くし、眩しそうに目を細めた。
山陰の城崎温泉で、あの見ず知らずの料理人――吉野涼太と名乗った男から、生野の栃餅を分けてもらったのは、二日前のことだ。
『風の吹く方へ寄り道していけば、きっと本当に帰るべき場所が見つかりますよ』
彼がくれた素朴で温かい栃餅の味と、その言葉だけを胸に、唯は中国山地を南へと下ってきた。
東京のメガベンチャー企業でマーケティングディレクターをしていた頃は、一分一秒を惜しんでスケジュールを詰め込んでいた。KPI、月次売上、競合の動向、部下のマネジメント、役員会でのプレゼン……。
いつの間にか、秒針の音を聞くだけで心臓が早鐘のように鳴り、夜眠れなくなった。
そしてある朝、ベッドから一歩も起き上がれなくなった。
「数字を出せない私には、もう生きている価値がない」
退職届を会社のデスクに置き、部屋の荷物をスーツケースに詰め込んで、逃げ出すように東京を飛び出したのだ。
トレンチコートのポケットに手を入れると、指先に小さな四角い厚紙が触れた。
城崎の足湯を出た後、いつの間にかポケットに入っていた、不思議な切符。
┌──────────────────┐
│ [風] 風 の 切 符 │
│ 発駅:立ち止まった海辺 │
│ 着駅:息ができる場所 │
│ │
│ 経由:瀬戸内海・波打ち際線 │
└──────────────────┘
「息ができる場所、か……」
唯が小さく自嘲の笑みをこぼした、その時だった。
ホームの方から、トロンボーンのように軽やかで、どこかジャズの調べを思わせる澄んだ汽笛が響いてきた。
――ファァァァァン……♪
振り返ると、一番線ホームに、息を呑むほど美しい列車が滑り込んでくるところだった。
車体は、瀬戸内海の穏やかな深海を思わせる、深みのある藍色――せとうちブルー。
窓の下には、波打ち際に差し込む陽光のような、上品なゴールドのラインが一本、すっきりと走っている。
観光列車『エトセトラ』。
プシューッと扉が開き、デッキから軽やかな足取りで一人の女性が降りてきた。
唯は思わず息を止めた。
すっきりとした黒髪のショートボブに、涼やかな切れ長の瞳。
身に纏っているのは、車体と同じ深いブルーにゴールドのステッチが入った、細身のバーテンダーベストと黒のスラックス。
左耳の耳たぶには、初夏のレモンの果肉を思わせる、透き通ったイエローのガラスピアスが揺れている。
年齢は二十代半ばほどに見えるが、その立ち居振る舞いは、名門ホテルのメインバーを束ねるチーフバーテンダーのような、洗練された大人の気品に満ちていた。
女性は唯の足元にある重そうなスーツケースと、その右手に握られた『風の切符』に目を留めると、艶やかな唇をふっと緩めた。
「ようこそ、瀬戸内へ。お嬢さん」
「えっ……あ、あの……」
「ずいぶんと重たいものを引きずってきたのね。数字の鎖も、締切の砂時計も、ここには持ち込み禁止よ」
女性は唯の手からスッとスーツケースの持ち手を引き取ると、ウインクしてみせた。
「私の名前は『エトセトラ』。ラテン語で『その他、いろいろ』って意味よ。人生なんて、計画通りにいかない『いろいろ』の寄り道の中にこそ、本当の旨味があるものなの」
「エトセトラ……」
「さあ、乗りなさいな。波打ち際を走るバーカウンターへ、ご案内するわ」
背中を優しく押され、唯は深い青の列車へと招き入れられた。
そこは、唯が知っているどんな電車とも違う、海の香りと木漏れ日に満ちた、大人のためのオアシスだった。




