第018話:昇る朝陽、新しい朝を迎えるために
湖に夜のとばりが降りた頃、約束通り藤堂栞が工房を訪ねてきた。
修二は栞の祖父の手紙を見て目を細め、かつて祖父が漉いた因州和紙の張られた古い行灯を作業場の奥から出してきた。
『風樹舎の木枠に、うちの和紙を合わせたら、日本一あったかい灯りができる』
亡き祖父が残した言葉に、栞は涙ぐみ、修二の手を握りしめた。
二十五年前の約束と、半世紀前の職人の約束が、同じ湖畔の工房で温かく交差した夜だった。
***
翌朝。出雲市駅のホームには、旅立ちを告げる静かなチャイムが鳴り響いていた。
「雅人、これ持っていけ」
駅の改札まで見送りに来てくれた修二が、丁寧に和紙で包まれた細長い小箱を雅人の手に握らせた。
「これは……?」
「奥さんへの土産だ。山桜を削って作った一輪挿しだよ。……ちゃんと帰って、素直に頭下げろよ。お前がどんなに不器用で、仕事熱心で、寂しがり屋か、一番わかってくれてるのは奥さんなんだからさ」
「……ああ。ありがとう、修二。必ず、二人でまたここへ来るよ」
「おう。いつでも待ってるぞ」
二人は固く右手を握り合った。男同士の友情は、二十五年の空白などまるでなかったかのように、深く、熱く結び直されていた。
***
ホームへ上がると、ワインレッドのルーフをまとった寝台特急が、雅人を待っていた。
デッキの扉が開くと、サンライズが優雅に一礼して迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、雅人さん」
「ただいま、サンライズ。……本当に、いい旅になったよ」
雅人は胸ポケットから、あの『風の切符』を取り出した。
すると、硬券の表面に、出雲大社の神紋を思わせる朱色の美しいスタンプが浮かび上がった。
┌──────────────────┐
│ [風] 風 の 切 符 │
│ 発駅:終電の東京駅 │
│ 着駅:出雲市(約束の湖畔) │
│ │
│ [下車前途無効・再生の夜明け] │
└──────────────────┘
「切符の役目は、これで終わりですわね」
サンライズは嬉しそうに目を細めた。
「でも、東京へお帰りになる列車には、そのまま乗っていらして。復路の朝陽もまた、格別に美しいものですから」
「ありがとう。東京行きの『サンライズ出雲』、乗せてもらうよ」
プシューッと扉が閉まり、列車は再び東へ向けて走り出した。
山陰の山々を抜け、夜の帳を駆け抜け、列車は再び東海道を上っていく。
***
翌朝、午前六時四十分。
多摩川の鉄橋を渡る心地よいガタゴトという音で、雅人は目を覚ました。
カーテンを開けると、車窓一面に、まばゆいばかりの朝陽が差し込んできた。
ビル街のガラスが黄金色に輝き、通勤客がホームに並び始めている。
昨日まであれほど息苦しく感じられた東京の街が、今はまるで、新しく生まれ変わった自分を祝福するかのように輝いて見えた。
雅人はスマートフォンを取り出した。
そして、妻の連絡先を開き、指先を滑らせた。
『実家でゆっくり休めているかい。
今、出雲から東京に戻るところだ。
君に会って、話したいことがたくさんある。
君が好きだった出雲の蕎麦と、友人が削ってくれた小さな桜の一輪挿しを買ってきたよ。
今夜、君の好きな花を一輪だけ買って、待っていてもいいだろうか』
送信ボタンを押すと、心の奥にあった最後の氷が、春の雪解け水のようにサラサラと溶けていくのを感じた。
朝陽を浴びて輝くサンライズの車内で、雅人は深く、力強い息を吸い込んだ。
新しい一日が、今、始まろうとしていた。
***
【幕間:米子駅・静寂の機関区】
山陰の風が、古い転車台を吹き抜けていく。
留置線の奥深く、紺碧と白の神職を思わせる美しい装束に身を包んだ少女――鉄娘『あめつち』が、静かにその涼やかな瞳を開いた。
「……夜を越える風が、東へ吹き去りましたね」
彼女の細い指先が、山陰のしっとりとした空気を撫でる。
「美大の娘さんは、因州和紙の里へ向かわれるとか。……ええ、わたくしの出番も、そう遠くはなさそうです」
少女は小さく微笑み、静かに目を閉じた。
西の鉄路の物語は、途切れることなく、次の誰かの風を待ち続けている。
(第一周遊 第二章『サンライズと夜明けの湖』 了)
(第一周遊 第三章『エトセトラと黄金色の夕凪』へつづく)




