第017話:茜色の湖畔、二十五年目の乾杯
夕暮れの気配が、宍道湖の広い水面をゆっくりと青から茜色へと染め変えようとしていた。
波打ち際の松並木を抜けた先に、杉板張りの平屋の工房が佇んでいた。
軒先には、手彫りの控えめな看板――『木工房 風樹舎』。
開け放たれた引き戸の奥から、シュッシュッという小気味よい鉋の音と、香ばしい山桜とヒノキの削り屑の匂いが漂ってくる。
雅人は工房の敷居の手前で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
心臓が早鐘のように打っている。
作業台の向こう、車椅子に腰掛け、一心に木製の器を削っている男の背中があった。
かつての浅黒く精悍だった髪には白いものが混じり、背中も少し丸くなっている。だが、木に向き合うその真剣な眼差しは、二十五年前、ネパールの安宿で地図を睨んでいた親友の横顔そのものだった。
「……修二」
震える声で、その名を呼んだ。
鉋の音がピタリと止まった。
車椅子の男が、ゆっくりと首を巡らせる。
細められた瞳が雅人の姿を捉え、見開かれ――そして、雅人が何千回も記憶の中で再生した、あの懐かしいくしゃくしゃの笑顔へと崩れた。
「……遅せぇよ、雅人」
掠れた、けれど温かい声が響いた。
「四十五をとっくに過ぎちまったぞ。待ちくたびれて、鉋の刃が一本ちびちまったじゃねえか」
「修二……っ!」
雅人は駆け寄り、車椅子の前に膝をついた。
「すまなかった……! 俺、ずっとお前の連絡を無視して……病気になったことも知らず、合わせる顔がないなんて逃げ回って……本当に、すまなかった……!」
頭を下げ、床に手をつこうとする雅人の肩を、太く節くれだった手が力強く掴んだ。
「顔を上げろよ、バカ野郎」
修二の目にも、光るものが浮かんでいた。
「お前が大手商社ででかいプロジェクト任されて、身を粉にして働いてたことくらい、風の便りで知ってたさ。東京の戦場で必死に戦ってるお前に、病気で脱サラした俺の愚痴なんて聞かせたくなかったのは、俺の方だ」
修二は雅人のスーツの胸元を軽く拳で小突いた。
「ほら、立派なスーツ着やがって。でも、顔色は最悪だな。……約束、覚えててくれたんだな」
「忘れるわけないだろ……! 俺の人生で、一番大事な約束だったんだ……!」
***
日が落ちる直前、二人は工房の裏手――湖に突き出た小さな石積みの突堤へと出た。
そこには、息を呑むような世界が広がっていた。
――宍道湖の夕陽。
空の彼方、出雲大社の神々が鎮まる西の山並みに、巨大な太陽がゆっくりと沈んでいく。
雲ひとつない夕暮れの空が、天頂の深い藍色から、紫、紅蓮、そして燃え盛るような黄金色へと七色にグラデーションを描く。
その光を受け止めた宍道湖の水面は、まるで溶けた琥珀のように輝き、遥か沖合に浮かぶ小島――嫁ヶ島の松のシルエットが、一幅の水墨画のように浮かび上がっていた。
静かだった。
寄せては返すさざ波の音だけが、永遠のように響いている。
「すごいな……」
雅人が呟くと、修二が膝の上から一本の木箱を取り出した。
「この日のために、ずっと削って温めておいたんだ」
蓋を開けると、そこには見事な木目のぐい呑みが二つ並んでいた。
島根の山桜をくり抜き、丁寧に天然漆で拭き漆を施した器。手にとると、驚くほど軽やかで、吸い付くように手のひらに馴染んだ。
修二が一升瓶の栓を抜く。松江の銘酒『李白』。
トクトクトク……と澄んだ酒が木肌を満たす。
「ほら、雅人。二十五年目の乾杯だ」
「ああ……!」
カチン、と木と木が触れ合う柔らかな音が、夕凪の湖面に吸い込まれていく。
酒を喉へ流し込んだ。
すっきりとした辛口の奥に、芳醇な米の甘みと、山桜のほのかな木の香りが重なり合って、胸の奥を熱く焦がしていく。
「美味いな……修二」
「ああ、最高に美味い」
二人は夕陽を見つめながら、並んで酒を啜った。
「雅人。お前、疲れたらまたここへ来いよ」
修二が夕陽に照らされた横顔で言った。
「人間、たまには立ち止まって、美味いもん食って、夕陽を眺めなきゃ駄目だ。この湖はな、何も言わずに全部飲み込んでくれる。お前がどんなに失敗しても、どんなに迷っても、この夕陽は明日も明後日も、絶対にここで待ってるからさ」
「……ああ。ありがとう、修二……」
雅人の頬を伝った涙が、茜色に染まる湖面へとぽたりと落ちた。
二十五年分の後悔が、夕陽の光の中に静かに溶けて消えていくのだった。




