第016話:待合室のスケッチブック
松江からローカル列車に乗り、宍道湖の西岸へと向かう途中の乗り換え駅。
改札を抜けた待合室には、使い込まれた木のベンチと、天井でゆっくりと回るシーリングファンが、のどかな影を落としていた。
次のバスを待つ間、雅人はベンチの端に腰を下ろした。
ふと隣を見ると、大きなキャンバスバッグを足元に置いた若い女性が座っていた。
年の頃は二十代前半。生成りのシャツに藍染めのエプロンワンピースを重ねた、美大生とおぼしき佇まい。
彼女は膝の上に広げた分厚いスケッチブックに、一心不乱にデッサン用の鉛筆を走らせていた。
サッサッ、と心地よいリズミカルな擦過音。
雅人の位置からは、彼女が描いている絵が自然と目に入った。
描かれていたのは、人物でも風景でもない。
木目の美しさをそのまま生かした、素朴な丸盆と、滑らかな曲線を帯びた木のスープマグだった。陰影が細やかに描き込まれ、まるで紙の中から木のぬくもりや、挽いたばかりの削り節の匂いまで立ち上ってきそうなほど、命の宿った絵だった。
「……すごく、温かい絵ですね」
気がつけば、雅人は思わず声をかけていた。
女性はびくりと肩を揺らし、慌ててスケッチブックを胸に抱え込んだ。
「あ、すみません! 覗き見するような真似をしてしまって……」
雅人が慌てて頭を下げると、女性は雅人のスーツ姿と困り顔を見て、ふっと緊張を解いたように微笑んだ。
「いいえ……ありがとうございます。見られるのは、ちょっと恥ずかしいですけど」
彼女はショートボブの黒髪を耳にかけ、スケッチブックを少しだけ雅人の方へ傾けて見せてくれた。
「私、京都の美大で工芸を学んでいる藤堂栞と申します」
「藤堂さん。その器は、この土地のものなんですか?」
「はい。実は……亡くなった祖父の遺品を整理していたら、古い手紙と写真が出てきたんです。祖父は昔、鳥取で因州和紙を漉く職人だったんですが、手紙には『出雲の湖のほとりにある木工所と、和紙を使った新しい民芸品を作る約束をした』って書いてあって……」
栞は愛おしそうに鉛筆の腹を撫でた。
「私、最近自分の作品に自信が持てなくなってスランプだったんです。でも、祖父の手紙を読んだとき、どうしてもその木工所を訪ねて、祖父の生きた足跡を見たくなって……気づいたら、山陰へ向かう汽車に乗っていました」
「そうだったんですか……」
雅人は胸を打たれた。自分と同じだ。誰もが、何かに迷い、何かに引き寄せられるようにして、この西の果ての鉄路を旅している。
「その木工所の名前、なんて言うんですか? もしかしたら地元の人に聞けばわかるかも」
「ええと……手紙には、『湖畔の木工房・風樹舎』と書かれていました。なんでも、元は都会でサラリーマンをされていた方が、脱サラして立ち上げた工房だそうで……」
「……えっ!?」
雅人は思わず立ち上がった。
「風樹舎……!? 修二の……工房……!?」
「えっ? ご存知なんですか?」
栞が丸い目をさらに丸くして雅人を見上げた。
「知っているどころじゃない……! そこを立ち上げた男は、僕の大学時代からの親友なんだ。……僕も今、二十五年ぶりにあいつに会うために、そこへ向かうところだったんだよ」
二人は呆然と顔を見合わせ、やがて同時に小さく吹き出した。
「すごい偶然ですね……! いえ、偶然じゃないのかな」
栞は嬉しそうに目を輝かせた。
「鉄路の神様が、糸を引いてくれたのかもしれませんね」
「ああ……本当にそうかもしれない」
駅前に、湖畔行きの小さな路線バスが砂埃を上げて停まった。
「藤堂さん、僕が先に修二のところへ行っているよ。君も、気をつけておいで」
「はい! お友達と、ゆっくりお話ししてくださいね。夕方、夕陽が落ちる頃に工房へお邪魔します!」
栞は元気に手を振ってくれた。
バスに乗り込んだ雅人の胸には、もはや一欠片の迷いもなかった。
運命は繋がっている。
サンライズが運んでくれた風の切符は、ただ雅人を運んだだけでなく、過去と未来、人と人との見えない絆を、鮮やかに紡ぎ直していたのだった。




