第015話:七珍の恵みと、出雲割子そばの黒い輝き
松江城を囲む堀割沿い――京橋川の柳並木を歩いていると、どこからともなくカツオ節と濃口醤油の香ばしい匂いが漂ってきた。
水面をすべる堀川遊覧船の屋根が、低い橋をくぐるためにスーッと下がるのを眺めながら、雅人は黒壁の老舗そば処の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、中庭の見えるお席へ」
品の良い着物姿の花番さんに案内され、中庭の青モミジが見える座敷に腰を下ろす。
雅人が注文したのは、松江に来たからには絶対に外せない名物――**『出雲割子そば』**、そして宍道湖七珍の**『大和シジミの潮汁』**と**『スズキの奉書焼き』**だった。
「お待たせいたしました」
運ばれてきた朱塗りの角盆の上には、鮮やかな深紅の円形の小重が三段、端正に積み重ねられていた。
蓋を開けた瞬間、涼やかな風とともに、ツンと鼻腔をくすぐる力強い穀物の香りが立ち上る。
「……黒いな」
雅人は思わず目を凝らした。
東京の更科そばのような透き通る白さではない。玄蕎麦の甘皮ごと挽き込んだ「挽きぐるみ」と呼ばれる製法で作られた、野趣あふれる黒褐色の艶やかな蕎麦。ところどころに星と呼ばれる黒い粒が散っている。
「割子そばはですね、おツユを直接器にかけて召し上がるんですよ」
花番さんが優しく教えてくれた。
「一段目を召し上がったら、残ったおツユを二段目へ、そして三段目へと移していくのが出雲の習わしでございます」
雅人は一段目の重箱に、小皿の薬味――刻みネギ、紅葉おろし、削り節、そして日本海で採れた黒々とした岩海苔を散らし、とっくりに入った濃厚なツユをひと回し注いだ。
箸で手繰り、一気にすする。
――ズズッ、ズズズッ!
「……っ!」
噛み締めた瞬間、強いコシとともに、圧倒的な蕎麦の風味が口内いっぱいに弾け飛んだ。
荒々しいほどの香気。噛むほどに蕎麦の実の甘みがじわじわと滲み出てくる。
出汁の効いた少し甘辛いツユが、蕎麦の力強い風味を完璧に受け止めている。紅葉おろしのピリッとした辛味と、岩海苔の豊かな磯の香りが絶妙なアクセントとなり、箸が止まらない。
一段目を平らげ、残ったツユを二段目へと注ぎ、またすする。食べる行為そのものが、まるで大地との対話のように力強い。
続いて、大ぶりのお椀の蓋をとった。
湯気とともに立ち上ったのは、磯の香りと、言葉を失うほど濃厚な貝の匂い。
**『宍道湖産・大和シジミの潮汁』**だ。
椀の中には、黒真珠のように美しく磨かれた大粒のシジミが、底が見えないほどぎっしりと沈んでいる。スープは、シジミから溶け出したオルニチンとアミノ酸で、白く濁っていた。
両手で器を持ち、ずずっと啜る。
「…………ああぁ……」
思わず、腹の底から声が漏れた。
舌に染み、食道を通り、荒れ果てていた胃壁、そして長年の激務と酒で疲れ切っていた肝臓の隅々にまで、濃厚な旨味がじわじわと染み渡っていく。
身体中の細胞が「生き返る」と叫んでいるかのようだった。
さらに、奉書紙に包まれて供されたスズキの身を箸で割る。
紙の中で蒸し焼きにされた宍道湖のスズキは、驚くほど身がふっくらとしており、滴る脂が上品な甘みを放っていた。
「……うまい。本当に、うまいな」
気がつけば、三段の割子そばも、シジミ汁も、スズキも、綺麗に平らげていた。
胃袋の底から、カッカと温かい熱が湧き上がってくる。
サンライズの言った通りだった。
美味いものをしっかり腹に入れると、不思議と「逃げ出したい」という臆病な心が消え、足の裏にしっかりと大地の重みが戻ってくる。
「ごちそうさまでした」
雅人はしっかりと背筋を伸ばして席を立った。
向かうべき場所は、決まっていた。宍道湖の西のほとり、親友・修二の待つ木工工房だ。




