第212話:漆黒のピアノブラック、七つの星が夜空へ昇る刻
由布院を出発した『ななつ星 in 九州』は、豊肥本線の険しい山並みを抜け、日豊本線を駆け抜け、やがて九州の西海岸――かつての鹿児島本線、現在は地域鉄道として鉄路を繋ぎ続ける『肥薩おれんじ鉄道』の海沿いへと歩みを進めていた。
午後五時を回った頃。
七号車のDXスイート展望車、窓一面に広がる大パノラマの向こうで、奇跡のような黄昏が始まろうとしていた。
西の水平線に横たわる東シナ海が、刻一刻と表情を変えていく。
最初は眩しいレモンイエローだった陽光が、次第に濃密な蜜柑色へと深まり、やがて燃え盛るような紅蓮、そして薄紫と藍色が混ざり合う幻想的なグラデーションへと溶け合っていく。波打ち際が茜色の帯を引いて寄せ、引いては白い飛沫を光らせる。
「……言葉を失うほど、美しいな……」
涼太はラウンジのソファに身を沈め、窓辺に両手を当てて見惚れていた。
だが、彼の胸を激しく揺さぶったのは、海の夕景だけではなかった。
海岸線に沿って緩やかな弧を描く線路上を、列車がカーブを描いて進む時――。
車窓から振り返るようにして見えた、先頭車両から連なる編成の側面。その車体に映し出された光景に、涼太の背筋にゾクゾクとした震えが走った。
古代漆色と称される、深遠な漆黒を秘めた車体塗装。
それは、日本の伝統工芸の漆器のように、何層もの塗膜を職人が手作業で水研ぎし、鏡面のように極限まで磨き上げられたものだ。
夕暮れの強い斜光を浴びたその車輪の上には、燃え上がる東シナ海の夕焼け空と、海に沈みゆく黄金の太陽が、寸分の歪みもなく『完全な鏡』として映し出されていた。
鉄の塊が走っているのではない。
夕暮れの茜雲と東シナ海の波頭が、長大な一本の光の帯となってレールの上を滑走していく。
金色のエンブレム――七つの星を囲む月桂樹の紋章が、夕陽の残光を捉えて神々しくギラリと輝く。
「この塗装は、九州の山と海、そして人々の暮らしの風景を、そのまま映し出すために生まれた鏡なのです」
背後から、静謐な衣擦れの音と共に声がした。
ななつ星が、涼太の隣へと並び立つ。
彼女の瞳には、沈みゆく夕陽の茜色が宿り、その横顔は夕暮れの女神のように神々しかった。
「ただ美しく飾るためではありません。私たちは、九州の風土を映す鏡。沿線で手を振ってくださる農家の方々、駅のホームで見送ってくださる子どもたち、線路の敷石を一つひとつ点検してくださる保線員の方々の姿……それらすべてを車体に映しながら、私たちはこの大地を走り続けているのです」
「……この車体には、風景だけじゃない、人々の想いそのものが映っているんですね」
「ええ、そうです」
ななつ星は優しく頷き、夕陽が完全に水平線の彼方へと没し、深い群青の夜の帳が降りていく海を見つめた。
海と空の境界線が闇に溶け込み、水平線上に漁火の白い点がぽつり、ぽつりと灯り始める。
それと同時に、列車内の照明が静かに落とされた。
ラウンジカー『ブルームーン』の間接照明が、柔らかな琥珀色の明かりとなって、大川組子の障子に繊細な影を落とす。
「涼太さん、天井を見上げてごらんなさい」
促されて天井の天窓を見上げ、そして展望車の大きな窓の外を見上げた涼太は、息を詰まらせた。
そこには、都市の人工の光に侵されていない、東シナ海の漆黒の夜空が広がっていた。
満天の星々。
無数の星屑が天の川となって夜空を横断し、まるで手の届きそうなほどの距離で、凛とした冷たい光を放っている。
そして、列車の進行方向、北の空のやや高い位置に――。
ひときわ力強く、柄杓の形を描いて連なる、七つの明るい巨星が輝いていた。
「……北斗七星……!」
「はい」
ななつ星は、窓に手を重ね、七つの星を愛おしそうに見つめた。
「『ななつ星』の名には、九州が誇る七つの県――福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島への敬意が込められています。そして同時に、九州の七つの主要な魅力――自然、食、温泉、歴史文化、パワースポット、人情、そして列車という七つの宝物を象徴しているのです」
彼女の声は、夜の静寂の中に澄み渡り、心地よいチェロの響きのように車内に広がっていく。
「私たちが牽引する七両の客車は、その七つの星を地上に降ろしたものです。けれど……涼太さん。この列車には、七つの星だけでは決して完成しない、隠された真実があります」
「隠された……真実?」
涼太は問い返した。
ななつ星は、ゆっくりと涼太へと向き直り、その深い瞳で真っ直ぐに涼太を見つめた。
その瞳の奥には、夜空のどの星よりも温かく、力強い光が宿っていた。
「七つの星が集まり、どんなに贅沢な木材を使い、どんなに素晴らしい工芸品で飾られたとしても、そこに『人の心』が通わなければ、それはただの冷たい走る箱にすぎません。
傷つき、悩み、それでも前に進もうと切符を手にした旅人たちの涙。
旅人を温かく迎え入れ、心を込めて料理を作り、笑顔で手を振ってくださる沿線の人々の真心。
そして……絶望の淵から立ち上がり、今こうして全国の仲間たちの希望の手紙を胸に抱いて旅路を共にしてくれた、あなたの熱い魂。
それこそが――夜空の北斗七星を動かす、八つ目の星なのです」
「八つ目の……星……」
「ええ。旅人の心が灯ることで、ななつ星の旅路は初めて息吹を吹き込まれ、生き物となる。
第一周遊の東京から始まり、出雲へ、四国へ、北陸へ、伯備へ、紀州へ、関空へ、富山へ、山陰へ……。そして第二周遊の山口、山陽、伯備、丹後、若狭、能登、長門……。
日本中のレールを駆け抜けてきた二十の旅人たちの心という光が、今、この九州の空で一つの巨大な星座になろうとしています」
その言葉を聞いた瞬間、涼太の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
自分が取材ノートに書き留めてきた無数の言葉。
挫折した料理人、夢を見失った陶芸家、孤独に耐えていた整備士、後継ぎに悩んでいた職人、大切な人を喪った母親、居場所を探していた若者たち――。
彼ら全員が、あの『風の切符』に導かれ、鉄娘たちと出会い、車窓の風景と沿線の人々の温もりに触れて、再び生きる力を取り戻した。
そして今、彼らはそれぞれの街で、それぞれの鉄路のそばで、誰かを温めるための光を放っている。
「みんな……星なんだ」
涼太は呟いた。涙が、視界を滲ませる。
「誰もが、誰かの夜空を照らす、かけがえのない星だったんだ……」
「その通りです、涼太さん」
ななつ星が優しく微笑み、その華奢な指先を涼太の胸元へと重ねた。
「あなたの取材ノートに刻まれた旅人たちの言葉は、夜空の星図そのものです。さあ、夜はさらに深まります。いよいよ、私たちの旅の最も神聖な刻が近づいてまいりました」
「最も神聖な刻……?」
「はい。今宵、すべての線路は一つに繋がり、時空の彼方から、あなたと巡り合ったすべての仲間たちが、この九州の空へと駆けつけてくれます。……全鉄娘たちの、魂の二重奏が始まります」
漆黒の夜空の下、鏡の車体を持つ『ななつ星』は、北斗七星の導きを受けながら、静かに、そして力強く、闇を切り裂いて走り続けていた。




