第211話:由布院の森の朝霧、金鱗湖に湧く奇跡の湯水
深い眠りから覚めると、真鍮の真円窓の向こうは、しっとりとした灰青色のベールに包まれていた。
車輪がレールの継ぎ目を刻む「タタン、タタン」という律動は、母の胎内で聞く心音のように柔らかく、客室全体を包み込んでいる。
白石涼太は、上質な麻のナイトウェアの袖をまくり、手回しの真鍮ラッチを静かに回して窓を数センチだけ開けた。
ひんやりとした早朝の空気が、車内に流れ込んでくる。
それは、杉の瑞々しい青葉と、大地深くから湧き出す湿り気を帯びた、清澄極まりない山の香りだった。
「――おはようございます、涼太さん。よく眠れましたか?」
ふわりと、白磁の陶器に淹れたての珈琲を注ぐような、澄んだ声が響いた。
客室の入口、大川組子の繊細な引き戸の傍らに、ななつ星が凛とした佇まいで微笑んでいた。
漆黒の艶をたたえた黒髪を後ろで綺麗に束ね、金色のモールが施されたロイヤルワインレッドの制服は、一筋の乱れもない。その手には、銀のトレイに乗せられた白磁のカップから、芳しい湯気が立ち上っていた。
「おはよう、ななつ星さん。……こんなに深く、途中で一度も目を覚まさずに眠れたのは、いつ以来だろう。昨夜、皆からの手紙を読んでいたはずなのに、気づいたら夢の海の中に沈んでいました」
「ふふ、良かったです。あなたの心に積もっていた長い旅の疲れを、この列車の揺りかごが少しでも解きほぐせたのなら、これ以上の喜びはありません。……窓の外を御覧なさい。まもなく、豊後富士の懐、由布院の朝が訪れます」
ななつ星が細い指先で示した先――。
霧の帳がゆっくりと風に払われると、朝焼けの薄紅色に染まり始めた空を背に、秀麗な二つの峰を持つ「由布岳」が、圧倒的な威容をもって姿を現した。山肌を這う緑のグラデーションは、悠久の神々が織り成した錦のように鮮烈で、ただ見上げるだけで胸が締め付けられるほどの神々しさを放っている。
列車は速度を落とし、緑の木立に囲まれた静謐な駅へと滑り込んだ。
黒塗りの木造建築が美しい由布院駅。ホームに降り立つと、草木が夜の間に抱え込んだ露が朝日に照らされ、無数のダイヤモンドのようにキラキラと瞬いていた。
「涼太さん。朝の散策へ出かけましょう。由布院の朝には、ここでしか巡り合えない奇跡の風景があるのです」
ななつ星に促され、涼太は駅を出て、まだ人影のない静まり返った小径を歩き始めた。
両脇には、清冽なせせらぎが水路をサラサラと流れ、丸みを帯びた川石の間を小さな魚がすり抜けていく。遠くの民家の煙突からは、朝の炊事の煙が細く立ち上り、どこか懐かしい薪の匂いが鼻腔をくすぐる。
歩くこと十五分ほど。杉林を抜けた先に広がった光景に、涼太は思わず足を止め、声を失った。
「これは……湖、なのか……?」
そこは、名高き『金鱗湖』。
しかし、涼太の目の前に広がっていたのは、常識的な水面の風景ではなかった。
湖の全面から、もくもくと、生き物のように白い蒸気が立ち上り、水面全体をすっぽりと乳白色の霧が覆い尽くしているのだ。
風が吹き抜けるたび、霧が龍のようにうねり、渦を巻き、空へと昇っていく。その霧の切れ間から、朝日の黄金色の光筋が斜めに幾筋も差し込み、水面を照らし出すと、水底で翻る鮒の鱗が、金色にギラリと光を弾いた。
「金鱗湖の湖底からは、冷たい清水と、約三十度の温かい温泉が、同時に湧き出しているのです」
並んで水辺に立ったななつ星が、霧に包まれる湖面を見つめながら静かに語りかける。
「秋から冬、そして春先の冷え込む朝、温かい湖水と冷たい外気が触れ合うことで、こうして一面の幻想的な朝霧が立ち込めます。相反するはずの『冷たい水』と『熱い湯』が、同じ大地の下で抱き合い、調和することで生まれる奇跡の景色。……どちらか一方だけでは、この美しい朝靄は決して生まれないのです」
「冷たい水と、熱い湯の……調和……」
涼太は呟き、水際にしゃがみ込んで指先を水面に浸した。
冷たすぎず、温もりを宿した不思議な温度が、指先から掌へとじわりと伝わってくる。
「……相反する二つのもの、か」
涼太の胸に、かつての苦い記憶が、霧の奥底から浮上するように蘇ってきた。
――三年半前。
東京の真夜中。煌々と蛍光灯が照らし続けるオフィスビルの一室。
終電を逃し、連日の激務と理不尽な叱責に耐えかね、ディスプレイの前で机に突っ伏して動けなくなった自分。
動悸が激しくなり、呼吸の仕方を忘れ、冷や汗が背中を伝った。
『お前なんかいなくても、代わりはいくらでもいるんだよ』
上司の冷え切った言葉が耳の奥で反響し、身体中の血液が凍りつくようだった。自分が何のために生まれ、何のために働いているのかすら分からなくなり、ビルの非常階段から見上げた東京の夜空には、星の一つも見えなかった。
あの時、自分の心は極寒の氷水のように冷え切っていた。
だが、あの日――ポケットの中で微かに震え、温かい光を放った一枚の切符。
『風の切符』。
それに導かれるようにして東京駅へと向かい、乗車した寝台特急サンライズ瀬戸。
個室のベッドに倒れ込み、夜の闇を疾走する列車の揺れの中で、初めて他人の温もりに触れ、涙を流した。
「あの時の俺は……ただ冷え切って、死にかけていただけでした」
涼太は立ち上がり、金鱗湖の朝霧を見つめながら、震える声で言った。
「でも、サンライズに乗って、四国の海を見て、日本中の列車と出会って……全国で必死に生きる人たちの温かい情熱に触れて。冷たい絶望と、温かい人の情が、俺の心の中でようやく一つに溶け合っていった気がするんです。……辛かった過去があったからこそ、今、人の優しさが骨の髄まで染みる。悲しみを知ったからこそ、誰かの痛みに寄り添う言葉が書けるようになった」
ななつ星は、慈愛に満ちた瞳で涼太を見つめ、そっと微笑んだ。
「ええ。あなたの絶望も、苦しみも、すべては今のあなたという豊かな泉を湧き立たせるための、尊い源流だったのです。……涼太さん、少し体を温めに行きましょう。この金鱗湖のすぐそばに、旅人の心身を芯から癒やしてくれる湯守の宿があります」
ななつ星に案内されたのは、藁葺き屋根の門を構える、由布院の老舗旅館だった。
宿の主人が「ななつ星の旅人さんですね、どうぞごゆっくり」と優しく頭を下げ、案内されたのは、雑木林の木漏れ日が降り注ぐ野天の岩風呂だった。
衣を脱ぎ、掛け湯をして、青みがかった透明な湯の中へと体を沈める。
「――あぁ……っ……」
思わず、腹の底から感嘆の吐息が漏れた。
肌にまとわりつくような、滑らかで柔らかな泉質。
アルカリ性単純温泉の優しい温もりが、毛穴の一つひとつから染み込み、凝り固まった肩や背中の筋肉を、心地よい重力解放へと導いていく。
露天風呂の周囲には、モミジの新緑が鮮やかに茂り、枝の隙間から差し込む朝の陽光が、湯面に揺れる波紋を金色の網目のように映し出している。
カラン、と竹の筧から湯が注がれる澄んだ音が、静まり返った森の中にコダマする。
湯気の中に顔を埋め、両手で温かい湯をすくって顔を洗った。
その瞬間、涼太の目から、堰を切ったように熱い涙が溢れ出してきた。
悲しい涙ではない。
悔しい涙でもない。
ただ、ただ――五臓六腑を満たす、圧倒的な生の実感。
「……生きてる……。俺は、生きてるんだ……」
東京のオフィスで息を詰まらせていたあの夜、自分は確かに一度、魂を失いかけていた。
もしあの時、風の切符が届いていなければ。
もしあの時、列車の扉を開けて旅立たなければ。
自分は今、この美しい朝の光を浴びることも、由布岳の雄大さに心を震わせることも、全国の旅人たちが紡いだ温かい手紙を読んで微笑むこともできなかった。
「生きていて……本当によかった……!」
頬を伝う涙が、湯船の波紋の中に落ちて溶けていく。
風が森の梢を揺らし、サーッと爽やかな葉擦れの音が渡っていく。深山の大自然そのものが涼太の肩を優しく撫で、「よくここまで歩いてきたね」と無言の抱擁を返してくれているようだった。
湯から上がり、涼やかな風を浴びながら宿の縁側でお茶をいただく。
そこへ、ななつ星が静かに歩み寄ってきた。
「良いお顔になりましたね、涼太さん。心の澱が、すべて湯気と共に空へ昇っていったようです」
「はい。……身も心も、完全に生まれ変わった気分です」
涼太は晴れやかな笑顔を浮かべ、胸ポケットから『風の切符』を取り出した。
厚手の切符の地紋には、今や全国二十の章を巡った証である無数の印影が、天の川の銀砂を敷き詰めたように繊細な光を放って瞬いている。
そして、その切符の裏面には、新たに小さな湯気のマークと共に、端正な筆文字が浮かび上がっていた。
『由布の恵み、命の湯水――心の凝りを解き放ち、次なる星空へ』
「さあ、涼太さん。朝の寄り道はここまでです」
ななつ星が手を差し伸べる。
「列車はこれから、九州の大地をさらに南へと下ります。次にお見せするのは、この旅路のクライマックス――東シナ海を黄金色に染め上げる夕暮れと、夜空に昇る七つの星の輝きです」
「はい! どこまでも、連れて行ってください!」
涼太は力強く頷き、ななつ星の手を取った。
由布院の森の朝霧を背に、二人は再び、漆黒の極上宮殿――『ななつ星 in 九州』へと歩みを進めたのだった。




