第213話:全鉄娘の二重奏、関門から響く感謝の汽笛
草木も眠る深夜二時。
『ななつ星 in 九州』は、鹿児島本線を北上し、再び関門海峡を望む北九州の静寂な鉄路へと滑り込んでいた。
客車内の明かりはすべて落とされ、七号車の展望ラウンジには、窓の外から差し込む月光と、無数の星明かりだけが青白く満ちている。
涼太は展望窓の最前列に立ち、夜の闇を見つめていた。
その隣には、ななつ星が静かに佇み、そっと両手を胸の前で組んでいる。
カタン、コトン――。
レールの継ぎ目音の合間に、ふと、不思議な羽ばたきのような風の音が混ざり始めた。
それはただの夜風ではない。
どこか懐かしく、温かい――これまで日本中の鉄路で肌を撫でてきた、無数の「風の記憶」そのもののざわめきだった。
「涼太さん、耳を澄ませて。……そして、前を御覧なさい」
ななつ星の囁きに導かれ、涼太は瞬きを忘れ、視線を前方へと凝らした。
線路の先、漆黒の夜の闇の向こうから、ポツリ、ポツリと、温かな光の粒が立ち上り始めた。
光の粒は瞬く間に線路上を駆け巡り、幾筋もの光のレールとなって、夜空へと向かって放射状に伸びていく。
そして――。
――フォォォォォンッ!
澄み渡る、優美な電子警笛の音が夜空を震わせた。
「あの汽笛は……!」
涼太の目が大きく見開かれた。
星空の光のレールの上、ななつ星の右斜め前方から、朝焼けのような赤とクリーム色のラインを引いた、流麗な車体が滑り込んできた。
運転台の窓から身を乗り出し、蜂蜜色のショートヘアをなびかせて満面の笑みで手を振る少女――。
「涼太さん! ここまでよく走ってきたね! 私の最初の旅人さん!」
第一周遊第1章、涼太の命を救った、寝台特急サンライズ瀬戸・出雲の化身『サンライズ』だった!
驚きに言葉を失う涼太の前で、奇跡のパレードは留まることを知らなかった。
今度は左手、深緑の気品ある車体を月光に輝かせながら、金色の帯を引いた豪華寝台列車が並走する。
「瑞風……!」
「うふふ、涼太さん。あなたの紡いだ物語、山陰と山陽の大地からもずっと見守っていましたよ」
深緑のドレスを翻し、慈愛の笑みを浮かべる『瑞風』。
さらに、加賀友禅の紅と白の美しいのれんをたなびかせた『花嫁のれん』が、凛とした佇まいで一礼する。
「能登の大地からも、心からの言祝ぎを捧げます」
神話の白木を思わせる紺碧の車体から、古の神楽笛の音を響かせる『あめつち』。
太平洋の黒潮のような青いラインを走らせ、白浜の波音を連れてきた『くろしお』。
茜色の伊予灘の夕暮れを瞳に宿し、温かな木造ベンチの温もりを運んできた『伊予灘ものがたり』。
青空のトロッコから、爽快な斐伊川の風を吹き抜かせる『奥出雲おろち号』。
第一周遊で涼太や旅人たちを包み込んだ鉄娘たちが、満天の星空の線路の上に勢揃いし、ななつ星を囲むようにして並走しているのだ!
「みんな……! どうしてここに……!?」
涼太の叫びに答えるように、今度は背後から、重厚なドラムロールのようなジョイント音が轟いた。
第二周遊の鉄娘たちだ。
――ボォォォォォォッ!
闇を切り裂く、力強くも誇り高い蒸気機関車の長緩汽笛。
新山口から駆けつけた『SLやまぐち号』が、漆黒の煙室扉を誇らしげに輝かせ、巨木のような煙を星空へと吹き上げながら並走する。
「涼太殿! 貴殿が恭平殿の重荷を解き放ってくれたこと、このやまぐち、生涯忘れぬぞ!」
その隣を、瑠璃紺の星空色の車体を滑らせる『WEST EXPRESS 銀河』が寄り添う。
「ふふ、涼太さん。冴子さんが焼いてくれたバゲットの香りが、まだ私の車内に残っています。誰かの夜明けを待つ旅路……あなたが見事に照らしてくれましたね」
さらに、白と黒のスタイリッシュな旅鞄をかたどった『ラ・マル・ド・ボァ』が、軽快なペダル音と共に微笑む。
「蓮司さんの真鍮のペンダント、すごく素敵だったわ! アートの風をありがとう!」
ブロンズ色の車体に茜色の光を纏い、伯備の山越えを駆け抜けてきた『新型やくも』。
「蒼太さんの木彫りの水滴、私の運転台にずっと飾ってあるよ! 伝統は途切れない、未来へ続いていくんだ!」
漆黒と黄金の落ち着いた車体から、丹後由良の海の香りと上質な地酒の香りを漂わせる『丹後くろまつ号』。
「志保さんの料理は、今や由良の海そのもの。旅人さんの言葉が、彼女の包丁に魂を宿らせてくださいました」
白い翼を広げ、関空の未来的な高架橋を駆け抜けてきた『関空特急はるか』。
「結衣さんの笑顔が、世界中の旅人をお迎えしています! 世界中へ、日本の温もりが届いていますよ!」
深い山緑色の車体に金箔の輝きを散らし、雨晴海岸の立山連峰を背負ってきた『べるもんた』。
「滝沢宗助の鍛鉄のバラは、まことに見事であった。職人の魂は、決して錆びぬ。それを教えてくれたのは、そなたの言葉だ」
そして、コバルトブルーの響灘の波打ち際を走り、萩の維新の風を運んできた『みすず潮彩』。
「小春ちゃんと蓮さんの手紙、届きました! 金子みすゞの詩のように、みんなちがって、みんないい……その優しさが、この列車の車輪を回しています!」
――ガタン! ゴトン!
最後に関門の海峡の底から、全身を無塗装のステンレスシルバーに包んだ、銀色の騎士が轟音と共に浮上してきた。
『銀釜(EF81 300番台)』だ!
「小僧! 本州と九州の絆、貴様が確かに繋いだぞ! 胸を張って終着駅へ向かえ!」
総勢十八柱――第一周遊、第二周遊を通じて、日本列島の津々浦々を走り抜けてきたすべての鉄娘たちが、満天の星空のハイウェイに一堂に会していた。
彼女たちの瞳には、それぞれの地で出会った旅人たちの笑顔が宿っている。
彼女たちの車体には、日本の豊かな山河と、四季折々の風と、名もなき職人たちの手仕事の温もりが刻まれている。
そのすべての車体が、ななつ星の鏡面塗装に映り込み、現実と幻想の境目が完全に融解していく。
「あぁ……っ……!」
涼太は両手で顔を覆い、激しく肩を震わせた。
喉の奥から込み上げる熱い感情が、声にならない叫びとなって胸を突き上げる。
自分は決して一人ではなかった。
あの絶望の夜から始まった旅路のすべての瞬間、すべての鉄路のカーブで、彼女たちが、そして沿線の人々が、見えない手で自分の背中を支え続けてくれていたのだ。
ななつ星が、ゆっくりと展望デッキの先頭へと進み出た。
彼女が両手を夜空へと掲げると、すべての鉄娘たちが頷き合い、息を合わせた。
「「――旅人さん!!」」
十八柱の鉄娘たちの、愛に満ちた声が夜空に重なる。
「「迷いながらも、歩みを止めないでくれて、ありがとう!」」
「「傷つきながらも、前を向いてくれて、ありがとう!」」
「「私たちを見つけてくれて、愛してくれて、本当にありがとう!!」」
そして――。
――フォォォォォォォォォンッ!!
――ボォォォォォォォォォッ!!
――ファァァァァァァァンッ!!
――ポォォォォォォォォッ!!
関門海峡の夜空へ向けて、全十八編成の汽笛とタイフォンが、魂の底から一斉に解き放たれた!
重厚な蒸気機関車の咆哮。
電子警笛の澄み渡る和音。
気動車の素朴で力強いタイフォン。
交直流電気機関車の鋭い共鳴音。
それらすべてが完璧なハーモニーとなって溶け合い、海を揺らし、山を震わせ、満天の天の川へと響き渡っていく。
それは、日本の鉄路が百五十年以上の歴史の中で育んできた、最も美しく、最も尊い、命のシンフォニーだった。
汽笛の余韻が星空へと吸い込まれていく中、鉄娘たちの姿が、金色の光の粒子となってゆっくりと夜空へ溶け込んでいく。
だが、その光の粒子は消え去るのではなく、涼太の胸の中、そして手元に握られた『風の切符』の中へと、吸い込まれるように集まっていった。
「涼太さん」
ななつ星が振り返り、光を湛えた瞳で微笑んだ。
「夜明けが来ます。……私たちの旅の、最後の駅へ向かいましょう」
東の空が、奇跡の夜明けを告げる紫紺から茜色へと、静かに、神聖に変わり始めていた。




