第208話:有田焼と薩摩切子、光を屈折させる至高の器
深夜零時。
『ななつ星』の最後尾に連結されたラウンジカー『ブルームーン』のカウンターバーには、至福の静寂と贅沢な時間が流れていた。
天井まで届く大きな一枚ガラスの後方展望窓には、闇夜を切り裂いて後方へと吸い込まれていく二条の光るレールが、銀色の尾を引いて流れている。
カウンターの止まり木に腰掛けた涼太の前に、ななつ星が静かに一つのグラスを置いた。
「……あっ!」
涼太の目が釘付けになった。
それは、鹿児島県が世界に誇る至高のガラス工芸――『薩摩切子』のロックグラスだった。
色は、深く妖艶な『金赤』。
透明なクリスタルガラスの上に、銅や金を溶かし込んだ厚い赤色ガラスを被せ、熟練の職人がホイールで深いカットを施したものだ。
一般的な江戸切子が鋭利でシャープな断面を持つのに対し、薩摩切子のカットは緩やかで、色ガラスから透明ガラスへと色が移り変わる境界線に、まるで夕霞のように幻想的なグラデーション――『ぼかし』が浮かび上がっていた。
「なんと見事な……光の屈折だ……」
涼太が感嘆の声を漏らすと、ななつ星が棚から一本の和紙に包まれた瓶を取り出した。
鹿児島県垂水市の蔵が生み出す、幻のプレミアム芋焼酎――『森伊蔵』。
薩摩切子のグラスに大きな丸氷が落とされ、トクトクと無色透明の焼酎が注がれる。
――カラン……。
氷が鳴った瞬間、室内の間接照明の光を吸い込んだ薩摩切子が、まるで燃え盛るルビーのように赤と金の光の粒子を車内の壁一面に乱反射させた。
立ち上るのは、芋くささなど微塵もない、熟れた果実や白檀のような気品あふれる芳香。
「どうぞ、涼太さん。九州の星の雫を味わってください」
涼太はグラスを手に取り、唇を湿らせた。
――トクッ……。
「……っ!?」
舌の上に触れた瞬間、言葉を失った。
カドのない、驚くほどまろやかで滑らかな口当たり。
契約栽培された黄金千貫と、高隈山系の清らかな地下水、そして伝統のかめ壺仕込みによって熟成された酒は、まるで極上のリキュールのように甘美で、喉を通ったあとに、深く静かな余韻だけを残してスッと消えていった。
「……美味しい。……身体の中に、清らかな炎が灯るようだ」
「ええ。薩摩の火山灰台地と、職人の頑固な手仕事が生んだ奇跡の滴ですわ」
ななつ星はカウンターの奥、洗面台のスペースを指差した。
そこには、人間国宝・十四代酒井田柿右衛門が、その最晩年にこの列車のためだけに命を削って焼き上げた、有田焼の白磁の洗面鉢が据えられていた。
「ご覧なさい、あの有田焼の『濁手』の乳白色を」
ななつ星が誇らしげに語る。
「真っ白ではなく、米の研ぎ汁のような、温かみのある柔らかな白磁。その上に、可憐な赤絵の柿や草花が描かれています。……柿右衛門先生はね、病に冒されながらも、『この列車に乗る旅人たちに、日本の最高の美を触れてほしい』と、最後の最後まで窯の前に立ち続けられたのですよ」
佐賀の有田焼。
鹿児島の薩摩切子。
福岡の大川組子。
熊本のい草の敷物。
宮崎のクスノキの家具。
大分の竹細工。
長崎の波佐見焼――。
「九州の七つの県が誇る、最高の伝統工芸の魂が、この列車の一両一両に宿っています」
ななつ星は胸元の薩摩切子の首飾りに触れた。
「職人たちはね、ただ贅沢な飾りを作るために腕を振るったのではありません。……人生に疲れ、傷つき、立ち止まった旅人が、ふと手で触れた時、その冷たい指先に『人間の手の温もり』を届けるために、命を削って削り、焼き、組み上げたのです」
涼太は薩摩切子のグラスを両手で包み込んだ。
ガラスの冷たさの奥から、職人の指先の熱が伝わってくるようだった。
「……みんな、同じなんだな」
涼太は呟いた。
「下関の旋盤職人も、倉敷の帆布職人も、この九州の工芸家たちも……。誰かの孤独を温めるために、誰かの命を支えるために、見えないところで魂を込めているんだ……」
列車は熊本の夜の山あいを縫うように、阿蘇のカルデラへと向かって登り始めていた。
九州の大地が育んだ至高の命たちが、旅人の魂を、次の奇跡へと押し上げていた。




