第209話:阿蘇のあか牛と関アジ、火の国が育んだ命の饗宴
列車は豊肥本線の山岳区間へと分け入り、標高五百メートルを超える世界最大級のカルデラ――阿蘇の裾野へと差し掛かっていた。
二号車のダイニングカー『ジュピター』。
天井のステンドグラスから柔らかな光が降り注ぐ中、白いクロスが敷かれたテーブルの上に、九州の山と海の頂点を極めた料理が次々と運ばれてきた。
「さあ、涼太さん。今夜のメインディッシュでございます。火の国・熊本の大自然が育んだ至宝――『阿蘇あか牛』の炭火焼きフィレステーキでございます」
有田焼の大皿の上、ジュウジュウと香ばしい音を立てていたのは、見事な厚切りのステーキだった。
一般的な黒毛和牛のような過剰なサシ(霜降り)はない。
阿蘇の広大な外輪山の草原で、太陽の光を浴び、天然の野草を食んで自由に放牧された褐毛和種。
その赤身は、深く鮮やかなルビー色をしており、表面だけがカリッと香ばしく炭火で焼き締められ、中はしっとりとしたロゼ色に輝いていた。
「どうぞ、阿蘇の湧水で育った生わさびと、天草の天然塩だけで召し上がってみてください」
涼太はナイフを入れた。
スッと、何の抵抗もなく刃先が肉の繊維へと吸い込まれていく。
フォークで一切れを口の中へと運んだ。
――グニュッ……ジュワワワワワァァァッッ!!
「……っっっ!!」
噛み締めた瞬間、涼太の全身に衝撃が走った。
肉汁の奔流。
脂っこさが一切ない。舌の上に広がるのは、雄大な阿蘇の大草原そのものを凝縮したかのような、濃厚で力強い「赤身肉のピュアなアミノ酸の旨味」だった。
噛めば噛むほど、肉の繊維から芳醇な肉汁が溢れ出し、生わさびの爽快な辛みが肉の甘みをどこまでも引き立てる。
「……美味い……っ! こんなに身体が喜ぶステーキ、食べたことがない……!」
「ふふっ、そうでしょ!」
ななつ星が満足そうに目を細めた。
「阿蘇のあか牛はね、脂肪分が黒毛和牛の半分以下で、タウリンやカルニチンといった健康成分がたっぷり含まれているのです。……無理に太らせるのではなく、大自然の懐で健康に育った命だからこそ、これほど力強く、清らかな味がするのですよ」
そして、その前菜として添えられていたのは、大分県・豊後水道の荒波が育んだ『関アジ・関サバ』の薄造り。
激しい潮流の瀬で一本釣りされたアジとサバ。
その身は、青魚とは思えないほど白く透き通り、金色の輝きを放っている。
口に運ぶと、パツンと心地よい強烈な歯ごたえのあと、上質な白身魚を凌駕する深い甘みが舌を満たす。
「火の国・熊本の大地と、水の国・大分の激流……。この二つの命が、今夜、あなたの中で一つに溶け合っているのです」
涼太はナイフとフォークを置き、窓の外の阿蘇の山並みを見つめた。
闇夜の中、うっすらと浮かび上がる阿蘇五岳の涅槃像のような稜線。
「……俺、東京のブラック企業にいた頃、何を食べていたんだろう」
涼太の目に、涙が滲んだ。
「コンビニの冷たい弁当を、パソコンの前でキーボードを叩きながら胃に流し込んで……。自分の身体が何を欲しているかも分からず、ただ壊れていくのを待っていた。……でも、いま、こうして九州の豊かな命をいただいて、自分の血となり、肉となっていくのを感じている」
「ええ」
ななつ星が静かに頷いた。
「食べることは、生きること。命を愛することです。……涼太さん、あなたがその身体で取り戻した命の尊さを、次は、全国の仲間たちの声とともに、解き放つ刻がやってまいりましたわ」
ななつ星は立ち上がり、最奥の特別客室――DXスイートの扉を示した。
全国から集まった二十編の物語が、いよいよ一つの光となって結集する時が訪れていた。




