第207話:大川組子の木漏れ日、釘を使わぬ幾何学の祈り
博多を出発した『ななつ星 in 九州』の車内。
足を踏み入れた瞬間、涼太はまるで、何百年もの時を重ねた森の奥深く、あるいは神聖な木の社殿に足を踏み入れたかのような錯覚に囚われた。
床には重厚なウォールナット、壁には温かみのあるナラやヒノキ。
だが、涼太の目を奪って離さなかったのは、車窓のブラインドの代わりに設えられた、目を疑うほど緻密に組み上げられた木製の引き戸――福岡県大川市が誇る伝統工芸『大川組子』だった。
「……なんて、細密な細工なんだ……」
涼太は思わず指先を近づけた。
厚さわずか数ミリの極細のヒノキとスギの木片。
それが、幾重にも、幾千、幾万と組み合わされ、日本の伝統文様である『麻の葉』『桜』『竜胆』『八重桔梗』の幾何学模様を隙間なく描き出している。
「驚かれたでしょう」
ななつ星が静かに寄り添い、組子の枠を優しく撫でた。
「この組子細工にはね、釘も、ネジも、接着剤すら一本も使われていないのですよ」
「釘を使っていない……!? こんなに複雑な模様なのにですか!?」
涼太は目を丸くした。
「ええ。木片の一本一本に、コンマ一ミリの狂いもなくカンナで溝や切り欠きを入れ、職人の指先の力加減だけで、パズルのように互いを噛み合わせているのです」
ななつ星は客室の照明を少し落とし、外からの月光を組子の引き戸越しに招き入れた。
すると、奇跡のような光景が室内の畳敷きの上に現れた。
月光が組子の隙間を通り抜け、床の上に、満天の星屑を敷き詰めたように精緻な幾何学の影絵を落としたのだ。
風が揺れるたび、影の星たちが静かに揺らめく。
「見てごらんなさい、涼太さん。この組子の木片たちを」
ななつ星の瞳に、深い慈愛の光が宿る。
「もし、一本の木片が欠けても、この模様は崩れてしまいます。一本の木片が自分だけ前に出ようとして膨らめば、全体のバランスが歪んでしまう。……一本一本が、自らの持ち場を守り、互いを押し合い、互いを支え合っているからこそ、この一枚の扉は、何十年、何百年と狂わずに立ち続けることができるのです」
「互いを……支え合う……」
涼太は手元のボストンバッグ――全国の旅人たちの手紙が詰まったバッグを見つめた。
「そうです。人間も、この組子と全く同じではありませんか?」
ななつ星の声が、涼太の心の琴線を優しく爪弾く。
「誰か一人が偉いわけでも、誰か一人が劣っているわけでもありません。……下関の旋盤職人も、病棟の救急医も、倉敷の帆布職人も、富山の老カメラマンも、長門の絵描きも……。誰もが、自分の生きる場所で、悩み、傷つきながらも、隣の誰かを支えるために自らの命を削って組み合わさっている。……その無数の人々の祈りの連鎖こそが、この美しい国を形作っている『目に見えぬ組子細工』なのですわ」
――目に見えぬ、祈りの組子細工。
その言葉が、涼太の胸に温かく染み渡った。
自分が全国を巡って集めてきた手紙の数々。
あの旅人たちの一人ひとりが、この組子の一片だったのだ。
列車は南へと速度を上げ、有明海の干潟の気配を運ぶ風が、車窓の組子をサワサワと鳴らしていた。
九州の夜の深まりとともに、物語は、全編の伏線が怒涛のように結実する、奇跡の領域へと進んでいった。




