第201話:大嶺酒造の『Ohmine』、弁天池の湧水が醸す神の雫
午前三時。
張り詰めた静寂が支配する旋盤工場に、乾いた金属の擦れ合う音が響いた。
――カチリ……シュルリ……。
恭平の油にまみれた指先が、削り上がったばかりの新品の真鍮軸受メタルを、C57の主連棒のクランクピンへと押し込んだ。
押し込むというよりは、金属同士が磁石のように引き合って、吸い込まれていくような手応え。
ガタつきは――ゼロ。
だが、手でピンを回すと、まるで温かいバターの上を滑るように、音もなく滑らかに回転した。
「……内径公差、プラス・コンマ〇一五ミリ……熱膨張代、完璧だ……!」
恭平がダイヤルゲージを離し、息を吐いた。
機関区長とベテラン保修員たちが、息を呑んでその軸受を取り囲んだ。
ピンを回し、隙間ゲージ(シックネスゲージ)を差し込もうとするが、コンマ〇一ミリの薄刃すら一枚も入らない。
「……信じられん」
機関区長の目が潤んだ。
「現物合わせで、真鍮の無垢材から、この短時間でここまでの精度を叩き出すとは……! これなら、津和野のどんな急勾配でも、絶対に焼き付きは起きん! 明日のやまぐち号は……走れるぞ!!」
「おおおおおおっっ!!」
機関庫の中に、保修員たちの歓声が地鳴りのように響き渡った。
「やったわね、恭平!」
やまぐちが恭平の首に抱きつき、頭をガシガシと撫で回した。
「あんた、最高よ! やっぱり私の見込んだ下関の男だわ!」
「わ、わかったから離せって! 息が詰まる!」
真っ赤になって照れる恭平を見て、冴子もぎんがも、声を上げて笑った。
「さあ、お二人とも。真夜中の奇跡を成し遂げた英雄たちに、最高のご褒美を用意いたしましたよ」
ぎんがが保冷庫から取り出してきたのは、見たこともないほど洗練された一本のボトルだった。
日本酒の瓶とは思えない、純白のマットセラミックでコーティングされたモダンな角瓶。
ラベルの文字はなく、ただ中央に、エンボス加工で米粒の形をしたシンボルが二つ刻まれている。
「……えっ? これ、日本酒なの? 香水か高級ワインのボトルみたい……」
冴子が目を丸くした。
「山口県美祢市の名門・大嶺酒造が、世界に向けて醸す最先端の純米大吟醸――『Ohmine2粒 雄町』でございます」
ぎんががグラスへとトクトクと無色透明の酒を注ぐ。
その瞬間、詰所の空気が一瞬にして変わった。
――フワァァァッ……!
「……っ!? なんてフルーティーな香り……!」
冴子が思わずグラスに顔を近づけた。
熟れたマスカット、ライチ、そして白桃をそのまま搾ったかのような、鮮烈で華やかな香気が爆発したのだ。
「大嶺酒造の仕込み水はね、名水百選にも選ばれている美祢のカルスト台地――『別府弁天池』の湧水を使っているのです」
ぎんがが語る。
「コバルトブルーに透き通る神聖な池から湧き出る、カルシウムとミネラルを豊富に含んだ中硬水。そして、酒米の元祖と呼ばれる岡山産の希少米『雄町』を極限まで磨き上げ、廃業寸前だった築半世紀の蔵を、世界的なクリエイターの手によって再生させた、革新の地酒ですよ」
「恭平、冴子! 乾杯よ!」
やまぐちが自分のグラスを掲げた。
「かんぱーい!」
四つのグラスがチリンと澄んだ音を立てた。
恭平はグラスを一気に傾けた。
――トクッ……ジュワッ……!
「……っっっ!?」
恭平は目を見張った。
「……な、なんだこれ……!? 日本酒なのに、まるで搾りたてのフレッシュな果汁そのものだ……!」
口に含んだ瞬間、ジューシーでみずみずしい甘みと、微かなガス感が舌の上でシュワリと弾けた。
だが、甘ったるさは微塵もない。
弁天池の清冽なミネラルが、酸味とともにスパーンと後味を洗い流し、まるで高原の朝風のように透明なキレを残して消えていく。
「美味しい……! こんなにピュアで、華やかな日本酒があるなんて……!」
冴子も感動の溜息を漏らした。
「伝統を守ることは、古い殻に閉じこもることじゃないわ」
やまぐちがグラスを干し、唇を拭った。
「この大嶺酒造のように、地域の宝である清らかな水を信じ、世界の新しい風を恐れずに吹き込むこと……。それこそが、本物の革新よ! ……恭平の削り出した軸受も、冴子の救う命も、全部同じよ!」
午前三時半。
美酒で喉を潤した四人の前に、機関区の扉が大きく開け放たれた。
外の夜空には、満天の星が瞬き、真夜中の転車台が、二両の列車を乗せるために静かに待っていた。




