第197話:周南のふぐ刺しと笠戸ひらめ、透き通る白身の極み
梅うどんで胃袋の冷えを解きほぐした四人は、新山口駅前の老舗割烹『長州苑』の離れの座敷へと案内されていた。
恭平の旋盤削り出し作業を前に、やまぐちとぎんがが二人のために用意した、もう一つの「山口の誇り」。
床の間の前に置かれた朱塗りの円卓。
その中央にドンと据えられた、尺二寸(直径三十六センチ)の有田焼の大皿を見た瞬間、恭平と冴子は同時に息を呑んだ。
「……おおっ……! これは……見事な鶴の絵皿だな……」
「絵皿……? 工藤さん、よく見て。お皿の上に、お魚が乗っているわ!」
冴子の声に、恭平は身を乗り出して目を凝らした。
そして、驚きのあまり顎が外れそうになった。
「……う、嘘だろ!? これ、全部刺身なのか!?」
大皿の底に描かれた、飛翔する二羽の鶴松の絵柄。
その絵柄が、皿の上に何もないかのように、くっきりと、鮮明に透けて見えていた。
だが、その絵皿の上には、花びらのように同心円状に、寸分の狂いもなく敷き詰められた数百枚の極薄の切り身――。
周南・徳山港から直送された、日本海の荒波と瀬戸内海の激流が育て上げた冬の王様――**『天然とらふぐの薄造り(てっさ)』**だった!
「ふふん! どうよ、下関の男!」
やまぐちが得意満面に腕を組んだ。
「ふぐといえば下関の南風泊市場が日本一の集散地として有名だけどね。その下関に揚がる最高峰のとらふぐを一本釣りで水揚げしている本場の一つが、ここ周南・徳山の海なのよ!」
大皿の脇には、これまた周南名物の『笠戸ひらめ』の薄造りと、ピンク色のエンガワ。
そして、山口県特産の極細ネギ『安岡小ねぎ(やすおかこねぎ)』の束と、ピリリと辛い紅葉おろし、地元産の完熟橙を絞った自家製の生ポン酢が添えられていた。
「さあ、遠慮はいらないわ! ふぐ刺しはね、一枚ずつ上品につまんじゃダメよ! お箸で三枚、四枚と一気にガバッとすくい取って、ネギを巻いて食べるのが、長州の流儀なんだから!」
やまぐちに煽られ、恭平は割り箸を大皿の端に滑らせた。
シャララッ……と心地よい手応えとともに、透き通るふぐ刺しが四枚、扇のように箸先にすくい取られる。
安岡小ねぎを芯にしてクルリと巻き、紅葉おろしを溶いた橙ポン酢にサッとくぐらせる。
そのまま、豪快に口の中へと運んだ。
――コリコリッ! パツンッ、パツンッ……!!
「……っっっ!?」
恭平の目が丸くなった。
「……なんだこの弾力……! 歯が入った瞬間、パツンと跳ね返ったぞ……!」
驚愕の食感だった。
死後硬直を解き、丸一日寝かせてアミノ酸を引き出した天然とらふぐの身は、まるで上質な軟骨のように強靭で、噛むたびに奥歯を心地よく押し返す。
そして、咀嚼を繰り返すうちに、淡白な白身の奥から、グルタミン酸とイノシン酸の濃厚極まりない甘みが、ジュワリと舌の味蕾を浸食していく。
安岡小ねぎのシャキシャキとした瑞々しい歯切れと、橙ポン酢のツンとこない芳醇な柑橘の酸味が、ふぐの旨味を何倍にも引き立てる。
「美味い……! 下関で食うふぐも絶品だが、この周南のふぐの身の締まりは、尋常じゃねえぞ!」
冴子も箸を伸ばし、笠戸ひらめのエンガワを口に運んだ。
――サクッ、トロリ……。
「……美味しい……っ!」
冴子の頬が桃色に染まった。
「エンガワなのに、全然脂っこくないわ。噛んだ瞬間に上品な甘い脂がジュワッと広がって、そのあと、上質なヒラメの身の旨味がずっと口の中に残っている……!」
「ふふっ。喜んでいただけて何よりです」
ぎんがが静かに微笑んだ。
「笠戸ひらめはね、瀬戸内海の激しい潮流と、ミネラル豊富な海底の砂地で育つため、筋肉が引き締まり、天然のヒラメの中でも最高峰の白身を誇るのですよ。……激流に耐え抜いた魚だけが、この透明な美しさと、揺るぎない歯ごたえを宿すのです」
恭平は二口目のふぐ刺しをすくい上げ、ポン酢につけながら呟いた。
「激流に耐え抜いた強さ、か。……俺の削る真鍮も同じだな。軟らかいだけの金属じゃ、SLの主連棒の爆発力に耐えられない。……だが、硬すぎても折れる。このふぐの身のように、強靭な弾力と、衝撃を受け流すしなやかさを持ったメタルを削らなきゃならねえ」
「ええ」
冴子も頷いた。
「人間の身体も同じです。……どんなにショック状態に陥っても、血管がしなやかに収縮し、心臓が必死で血液を送り続ける。……生命の底力って、本当に美しいわ」
二人は顔を見合わせ、酒盃を軽く合わせた。
激流を泳ぎ抜いた海の命たちが、旋盤職人の腕と、救急医の心に、最後のエネルギーを注ぎ込んでいた。
窓の外の夜空には、周南コンビナートの光が、まるで銀河のように眩く瞬き始めていた。




