第196話:防府天満宮の梅うどん、旅人の胃を温める出汁
夜の十時を回った頃。
新山口機関区での寸法取りを一旦終えた恭平と、ぎんがの車内で涙を流し尽くした冴子は、やまぐちとぎんがに促され、駅構内の連絡通路にひっそりと暖簾を掲げる老舗麺処『周防茶屋』の小上がりに案内されていた。
「ほら、二人とも! 戦の前には腹ごしらえよ! 空き腹で鉄は削れないし、命も救えないんだから!」
やまぐちがドンと卓に湯呑みを置く。
「ふふっ。やまぐちさんの言う通りですわ。今夜は長い夜になりますからね」
ぎんがも微笑みながら、小上がりのお盆を整えた。
向かい合わせに座った恭平と冴子。
油まみれの作業着の袖をまくった無骨な青年と、青いスクラブの上にトレンチコートを羽織った知的な女医。
一見すれば何の共通点もない二人の間に、店主が運んできた二つの丼から、息を呑むほど芳醇な出汁の香りが立ち上った。
「お待たせいたしました。防府天満宮名物――『梅うどん』でございます」
「……わあ、綺麗なピンク色……」
冴子が思わず声を上げた。
白磁の丼の中に横たわっていたのは、純白のうどんではなかった。
菅原道真公を祀る日本最初の天満宮・防府天満宮の梅林で収穫された完熟梅の果肉を、小麦粉にたっぷりと練り込んだ、鮮やかな桜色――薄紅色の手打ちうどんだった。
その麺の周りを満たすのは、濁りのない黄金色に澄み切った、熱々の澄まし出汁。
上には、甘酸っぱい大粒の紀州・防府南高梅の梅干しが一つ、刻み大葉、そして透き通るような白とろろ昆布がふわりと浮かべられていた。
「どうぞ、冷めないうちに。瀬戸内のイリコと羅臼昆布、そして削りたての鰹節で引いた一番出汁でございます」
恭平は割り箸を割り、まずは丼の縁に口をつけて出汁を一口啜った。
――ズズッ……。
「……っっ!?」
恭平の喉が大きく鳴った。
「……美味い! なんだこの出汁、イリコの力強い甘みと、昆布の深いコクが……五臓六腑に染み渡るぞ!」
冴子もレンゲで出汁をすくい、ゆっくりと口に含んだ。
――スッ……。
「……あ……っ」
冴子の強張っていた表情が、一瞬でふわりと解けた。
出汁の上品な旨味の中に、梅の持つ爽快でキリリとした天然のクエン酸の酸味が溶け合っている。
三日三晩、過酷な現場で張り詰め、砂漠のように渇ききっていた胃袋に、慈雨のように染み渡っていく優しい温もり。
「美味しい……! 酸味がこんなにもまろやかで、出汁の甘みを引き立てているなんて……!」
二人は箸を伸ばし、薄紅色の麺を啜り上げた。
――ズズッ、ズズズッ!
モチモチとした強いコシがありながら、表面は絹のように滑らかで、ツルリと喉を滑り落ちていく。
噛むごとに、小麦の香ばしさと、梅の爽快な清涼感が口いっぱいに広がり、大葉の香りととろろ昆布のとろみが麺に絡みついて離れない。
「ふう……生き返るな」
恭平が額の汗を拭い、丼を置いた。
「俺、下関から新山口まで、息をつく暇もなく車を飛ばしてきたからな。飯の味なんてすっかり忘れてたよ」
「ふふっ。私もです」
冴子が小さく笑った。
「三日間の災害医療応援の間、ゼリー飲料と冷たいコーヒーを流し込むだけで……こんなに温かいお出汁を飲んだのは、本当に久しぶりです」
冴子は恭平の腰のツールバッグ――あの無骨なオリーブドラブの帆布バッグに目を留めた。
「そのバッグ、とても頑丈そうですね。……使い込まれて、いい色になっているわ」
「ああ、これかい? 倉敷の若い帆布職人――水木蒼太っていう奴が縫い上げた、一号帆布のツールバッグなんだ。俺の旋盤の硬いバイトやレンチを入れても、ビクともしねえ頼れる相棒さ」
「旋盤職人さん、なのですね」
「ええ。金属を削って、コンマ何ミリの狂いもない部品を作るのが俺の仕事です。……篠原さんは、お医者さんなんですね」
「ええ。救急救命医です。……でも、命を救えなくて、怖くて逃げ出したくなるような、情けない医者よ」
冴子が自嘲気味に呟くと、恭平は真顔で首を横に振った。
「情けなくなんかないですよ」
「え……?」
「俺たち職人も同じです。金属の塊を前にして、刃物を当てる瞬間は、いつだって怖い。もし削りすぎたら、もし寸法を間違えたら、何百万円の素材が一瞬で鉄くずになる。……恐怖があるからこそ、慎重になれる。手が震えるからこそ、相手の痛みに寄り添えるんじゃないですか?」
恭平の真っ直ぐな言葉に、冴子の瞳が微かに見開かれた。
「昼の太陽の下で鉄を削る旋盤職人と、夜の底で命を救う救急医……。どちらも、誰かの明日を走らせるための、尊い仕事じゃないですか」
「……ありがとう、工藤さん」
冴子の口元に、心からの柔らかな笑みが浮かんだ。
「さあ、お腹が温まったら、今夜の勝負の舞台へ行くわよ!」
やまぐちが立ち上がり、緋色のストールを翻した。
「新山口の夜は、ここからが本番なんだから!」




