第195話:救急医の疲胆、周南コンビナートの無言の灯火
新山口機関区の扇形庫から旋盤の唸り音が響き始める中、向かいのホームに停車していた夜行特急『WEST EXPRESS 銀河』の四号車――フリースペース『プレセペ』の車内には、別世界の静寂が満ちていた。
瑠璃色のモケットが張られたボックスシート。
天井の調光LEDが、まるで満天の星空のように淡い琥珀色の間接照明を投げかけ、スピーカーからは静かにクラシックの夜想曲が流れている。
大きなテーブルに両肘をつき、篠原冴子は深く顔をうずめていた。
トレンチコートを脱いだ彼女の首元には、医療用のスクラブ(青い術衣)が覗いている。
その白衣の袖口には、薬品と消毒液のツンとした匂い、そして微かな煤の匂いが染み付いていた。
「……はあ……っ」
冴子は震える自分の両手を広げ、掌を見つめた。
爪の生え際は乾燥でひび割れ、指先は長時間の心臓マッサージと止血帯の処置によって、感覚が麻痺したように強張っていた。
三日前。
周南・徳山の石油化学コンビナートの巨大プラントで発生した、大規模な爆発火災事故。
隣接する総合病院の救急救命センターに応援として派遣された冴子は、サイレンの鳴り止まないトリアージポストの最前線に立たされ続けた。
重度の熱傷を負った作業員たち、爆風で飛散したガラス片で全身を裂かれた人々、有毒ガスを吸い込んで呼吸不全に陥った消防隊員――。
次から次へと運び込まれるストレッチャーの群れ。
『黒タスク(不搬送・死亡確認)を急げ! 赤タスク(最優先治療群)に全リソースを集中させろ!』
怒号が飛び交う処置室で、冴子は不眠不休で気管挿管を行い、胸腔ドレナージのメスを握り続けた。
だが――どれほど手を尽くしても、心電図のモニターがフラットになり、救えなかった命が、確実にあったのだ。
「……私は……本当に、救命医として役に立っているのかしら……」
冴子の乾いた唇から、零れ落ちるような呟きが漏れた。
「第十二章の『銀河』の旅で、私は眠りを取り戻したはずだった。……もう逃げ出さないと、心に誓ったはずだった。……なのに、目の前で止まる心臓を見るたびに、足が竦みそうになる。……いつか、私が間違った判断をして、救えるはずの命を殺してしまうんじゃないかって……恐怖で、息が詰まりそうになるの……」
「冴子さん」
ふわりと、星屑のショールをまとったぎんがが、冴子の対面のシートに腰を下ろした。
その手に持っていたのは、萩焼の薄桃色のティーカップ。
中からは、カモミールとラベンダー、そして瀬戸内のレモンピールをブレンドした、温かいハーブティーの湯気が立ち上っていた。
「どうぞ、冷めないうちに。あなたの張り詰めた神経を、優しく解きほぐすブレンドですよ」
「……ありがとう、ぎんがさん」
冴子は両手でカップを受け取った。
指先を通して、温かい陶器の温もりが伝わってくる。
一口啜ると、清涼なハーブの香りが鼻腔を抜け、胃の底に溜まっていた重い鉛のような塊が、すうっと溶け出していくようだった。
「冴子さん。窓の外をご覧になってください」
ぎんがが窓のブラインドを指差した。
窓の外――新山口から東へ十数キロの先、夜空を茜色と銀色に染め上げる、周南・徳山コンビナートの巨大な光の海が、闇夜の彼方に瞬いていた。
昼間は灰色の無骨な鉄骨と配管の塊でしかないコンビナート。
だが、夜の帳が降りた瞬間、そこは数千、数万のナトリウムランプと投光器によって照らし出された、息を呑むほど壮大な「光の不夜城」へと変貌を遂げていた。
「見てごらんなさい、あの無数の灯火を」
ぎんがは静かに囁いた。
「あのパイプラインの中を、熱い原料が休むことなく駆け巡り、日本のすべての暮らしと産業を、夜の底で支え続けています。……誰もその一つひとつのパイプに拍手など送りません。でも、あの不夜城が眠ることなく光を灯し続けているからこそ、何千万人もの人々が、明日の朝を安心して迎えることができるのです」
ぎんがは冴子の震える手に、そっと自らの温かい手を重ねた。
「冴子さん。あなたの手も、あの不夜城の光と同じです。……誰にも見えない暗闇の処置室で、血と泥にまみれながら、他人の命の灯火を消さないために、必死で自らの魂を燃やし続けてこられた。……あなたが繋ぎ止めた数え切れない命の灯火が、今夜も、この地上で静かに輝いているのですよ」
「私の……灯火……」
「そうです。……一人で世界中のすべての命を救うことなど、神様でもできはしません。……でも、目の前の一つの命のために、自らの限界を超えて涙を流せるあなたのその心こそが、患者さんにとっての、唯一無二の希望の星なのですから」
ぎんがの言葉に、冴子の目から、堪えきれない涙がポロポロとティーカップの中へと零れ落ちた。
「ぎんがさん……私、怖かったの……。本当に、怖くてたまらなかったのよ……」
「ええ、知っていますよ。……よく頑張りましたね、冴子さん」
ぎんがは優しく冴子の頭を撫で、自らの胸元へと抱き寄せた。
夜行特急の静かな揺りかごの中で、救命医の張り詰めていた心の糸が、ようやく解きほぐされていくのだった。




