第194話:扇形機関庫の熱気、C57の主連棒と真鍮の叫び
新山口駅の構内奥深く、一般の乗客が立ち入ることのできない機関区の敷地。
石炭の焦げた匂いと、重油、そして高熱で熱せられた鉄の匂いが渦巻く扇形機関庫の前に、恭平はやまぐちに連れられて足を踏み入れていた。
薄暗い庫内の中央に鎮座していたのは、漆黒のボイラーを黒光りさせ、時折シューッと微かな蒸気の息を吐き出す巨躯――蒸気機関車『C57形1号機』、通称「貴婦人」だった。
動輪の直径は一メートル七十五センチ。
大人の背丈ほどもある三組の巨大なスポーク動輪が、太い鉄の連結棒と主連棒によって結ばれている。
だが、その美しい足回りの前に、機関区のベテラン保修員たちが険しい表情で腕を組んで立ち尽くしていた。
「おい、下関の工藤鉄工所か! よく来てくれた!」
機関区長が恭平の手を力いっぱいに握りしめた。
「見てくれ、これだ。第一動輪のクランクピンと、主連棒を繋ぐ軸受メタルだ」
恭平は腰の倉敷一号帆布のツールバッグから、ドイツ製のマイクロメーターとダイヤルゲージを取り出した。
膝をつき、油まみれの主連棒の付け根に潜り込む。
主連棒――それは、シリンダーの中でピストンが往復する猛烈な蒸気の爆発力を、直接動輪の回転運動へと変換する、蒸気機関車の「心臓の動脈」とも言える最重要パーツだ。
その接合部には、ピストンからの巨大な衝撃を滑らかに受け流すため、特殊な青銅と真鍮で作られた円筒形の「軸受メタル(ブッシュ)」が圧入されている。
「……っ!」
恭平がダイヤルゲージを当て、手で主連棒を微かに揺すった瞬間、目盛りがピクリと跳ねた。
「ガタが……コンマ二ミリ出ている。しかも、円形じゃなくて、楕円形に偏摩耗しているぞ」
「そうだ」
区長が悔しそうに顔を歪めた。
「前回の運行の際、山陰の津和野の急勾配で、動輪の空転(空回り)が頻発したんだ。その時の強烈な衝撃で、軸受の真鍮が削れて熱膨張を起こし、内径が歪んでしまった。……このまま走らせれば、明日、時速八十キロでロッドが焼き付き、最悪の場合、主連棒が脱落して脱線転覆事故を引き起こす!」
「なら、予備の新品パーツは!?」
「メーカーの純正予備品を取り寄せるには、最短でも三日かかる。……明日の朝十時四十五分の新山口発車までに、この主連棒にピタリと嵌まる特注の真鍮軸受メタルを、現物合わせでミクロン単位で削り出せる職人がいなけりゃ……明日の『SLやまぐち号』は全線運休だ」
区長の言葉に、重苦しい沈黙が機関庫を支配した。
新山口から津和野へ向かう週末のSLやまぐち号。
全国から何百人もの鉄道ファンや、家族連れ、子どもたちが、半年前から指定席券を予約して楽しみに待っているのだ。
運休になれば、そのすべての子どもたちの夢が砕け散る。
「おい、恭平!」
やまぐちがズカズカと歩み寄り、恭平の革ジャンの胸ぐらを掴み上げた。
その緋色の瞳の奥に、機関車の火室の中で燃え盛る石炭のような、強烈な炎が宿っていた。
「あんた、下関の旋盤職人でしょ! 先々代から受け継いできた旋盤の腕は、こんなところで尻尾を巻いて逃げ出すためのものだったわけ!?」
「逃げるわけねえだろ!」
恭平が怒鳴り返した。
「だがな、やまぐち! 主連棒の軸受は、ただ丸く穴を開けりゃいいってもんじゃないんだ! 千馬力を超える蒸気の爆発力と、毎分三百回転の高速ピストンの摩擦熱に耐えるためには、熱膨張を見越した『逃げ』のクリアランスを、コンマ〇一ミリ単位で計算しなきゃいけないんだぞ! 素材の真鍮だって、普通のホームセンターの真鍮じゃ一瞬で溶け落ちる!」
「素材なら、あるわよ」
やまぐちはニヤリと不敵に笑い、扇形庫の最奥の資材庫を指差した。
「この新山口機関区の資材庫の底にはね、国鉄時代から半世紀以上も寝かされてきた、最高純度の『リン青銅と高力黄銅(真鍮)』のインゴット(金属塊)が眠っているわ。……道具も、機関区の大型旋盤を使っていい。……どうなの、工藤恭平? あんたに、この私の荒れ狂う心臓を、その手で受け止める覚悟があるの!?」
恭平は拳を痛いほどに握りしめた。
全身の血管が、アドレナリンで沸騰しそうだった。
第十一章で、祖父から継いだ町工場の旋盤。
チタンの削り出しで、ものづくりの誇りを取り戻したあの日。
そして今、目の前に横たわっているのは、日本鉄道史の生ける伝説――C57 1号機の心臓だ。
「……やってやるよ」
恭平は革ジャンを脱ぎ捨て、作業着の袖をまくり上げた。
「明日の朝までに、コンマ〇一ミリの狂いもない、世界一の真鍮軸受メタルを削り出してやる! お前のそのデカい車輪、絶対に止まらせやしねえ!」
「よく言ったわ、旋盤小僧!」
やまぐちが豪快に恭平の背中をバチンと叩いた。
扇形機関庫の中に、旋盤のモーターが轟音を上げて回り始めた。
夜を徹した、男と鉄娘の命がけの戦いが、幕を開けたのだった。




