第192話:波の切符、転車台の彼方に見える二つの光
山陰の長い旅が、終着の刻を迎えた。
午後八時。気動車『みすず』は、山陰本線と美祢線が交差する交通の要衝・長門市駅の一番線ホームに静かに滑り込み、長い旅路のアンカーを下ろした。
夜の帳が降りたプラットホーム。
改札口へと向かう階段の手前で、小春はみすずと向き合って立ち止まった。
その顔には、昨日のあの怯えも、絶望も、どこにもなかった。
胸元には、完成したばかりのあの絵が描かれたスケッチブックが、大切そうに抱きしめられている。
その時だった。
小春のパーカーのポケットが、カッと青く澄み切った熱を帯びた。
「あ……っ」
ポケットから取り出したあの硬券――『風の切符』。
厚紙の切符が、日本海の最も深い青を湛えたターコイズブルーと、純白の波頭の光を放ち始めた。
切符の表面に、見えない印鑑が押し当てられたかのように、ジジジ……と音を立てて朱色の紋様が浮かび上がってくる。
青海島の荒波と、仙崎湾の穏やかな水面。
中央には、可憐なたんぽぽの花と、海風気動車『みすず』のアールデコ調の丸窓。
そして、その下部に刻まれた凛とした文字――。
――[山陰本線・長門市/下車前途無効・海の詩の祈り 完了]
カチリと澄んだ音が響き、切符の光が静かに収まった。
硬券は、まるで仙崎の焼き抜き蒲鉾のように弾力に満ち、そして赤間硯のように深遠な温もりを、小春の掌に残していた。
「スタンプが、灯りましたね」
みすずがセーラー和装の裾を整え、穏やかな眼差しで小春を見つめた。
「小春さん。……あなたの心のキャンバスは、もう真っ白に、美しく張り直されました。……これから、どうされますか?」
「東京へ、帰ります」
小春は迷いのない澄んだ瞳で答えた。
「あのアカウントは、すべて消去します。数十万人の顔の見えない数字に怯えるのは、もう終わり。……小さなアトリエを借りて、自分の手で紙に、墨で、絵の具で、一枚ずつ絵を描き直します。……そして、かつての私のように、部屋の隅で泣いている、たった一人の少女のための絵本を作ります!」
「ええ……。その祈りは、必ず誰かの魂に届きますよ」
「みすずさん、本当にありがとうございました。……私、もう二度と、筆を手放しません!」
二人はしっかりと手を握り合った。
みすずの手は、小さな貝殻のように愛おしく、温かかった。
小春は深々と一礼し、山陽新幹線へと接続する美祢線のホームへと、軽やかな足取りで歩み出していった。
その背中には、もう迷いなど何一つなかった。
* * *
一人ホームに残ったみすずは、遠ざかる小春の背中を見届け、ふうと安堵のため息を漏らした。
胸元の金子みすゞの詩集を抱き締め直し、駅の構内の奥へと視線を向けた。
長門市駅の広大な構内の外れ。
かつて蒸気機関車が活躍していた時代、機関車の向きを変えるために使われていた、巨大なコンクリートと鉄の遺構――『転車台』が、月光を浴びて静まり返っていた。
その時だった。
――ポォォォォォォォッッ……!!
南の空――美祢線の山あいを越え、遥か山陽本線・新山口駅の方角から、夜の静寂を切り裂くような、地鳴りのごとき重厚な汽笛の咆哮が、風に乗って微かに届いた。
それは、大正の蒸気機関車――『SLやまぐち号(C57 1)』の、魂を揺さぶる石炭と煤煙の咆哮!
そして、それに呼応するかのように――。
――ファァァァァァァン……。
夜を徹して走る瑠璃色の夜行特急――『WEST EXPRESS 銀河』の、洗練された静謐なタイフォンが、重なるようにして響き渡った。
「あら……?」
みすずが目を細め、夜空を見上げた。
新山口の夜の帳の向こうに、二つの強烈な光が交錯しようとしていた。
一つは、第十一章で工藤恭平とともに下関から走破した、真昼の太陽と石炭の炎を宿す漆黒の鉄娘・**やまぐち**。
もう一つは、第十二章で救急医・篠原冴子とともに夜を越えた、星空と瑠璃色の夜想曲を奏でる夜行の鉄娘・**ぎんが**。
昼の太陽と、夜の星。
真逆の光を宿す二人の鉄娘が、新山口の転車台という「夜と昼の交差点」で、奇跡の交差を果たそうとしている気配――。
みすずは涼やかな唇に、神聖な微笑みを浮かべた。
「いよいよですね。……第二周遊のすべての伏線が、あの新山口の転車台へと集結していく……。昼と夜が巡り合い、旅人たちの祈りが一つに結ばれる、壮大なクライマックスの幕開けですわ」
日本海の潮風が、中国山地の山あいを越えて、南の空へと吹き抜けていく。
言の葉と絵の魂を救済した長門の海風は、次なる舞台――第二周遊の集大成たる『新山口の夜と昼の交差点』へと、最高の熱狂を乗せてバトンを手渡したのだった。
(第十八章 みすずと幻の青き入り江 ――完)
(第十九章『やまぐちとぎんが、夜と昼の交差点 〜新山口の転車台、星降る周南〜』へつづく)




