第191話:黄波戸の夕波、ノートの余白に走る黒鉛の線
仙崎を離れた気動車『みすず』は、山陰本線の本線へと合流し、日本海の海岸線を西へと向かっていた。
辿り着いたのは、長門市駅から二駅西に位置する、知る人ぞ知る絶景の無人駅――黄波戸駅だった。
高台に位置するホームに降り立つと、目の前には、視界を遮るもののない日本海の大パノラマが広がっていた。
初夏の西日が、深いコバルトブルーの海を黄金色と茜色に染め上げ、湾を抱く緑の岬の向こうへと、ゆっくりと沈みかけている。
ザザザザァァァ……と、崖下から心地よい潮騒の音が響いてくる。
「ここよ、小春さん」
みすずがホームの木製ベンチを指差した。
「海と空が溶け合うこの場所で、あなたの新しい命の線を、紙の上に刻みなさい」
小春は深く息を吸い込んだ。
潮の香りと、夕暮れの草の匂い。
バッグから取り出したのは、東京から持ってきた、表紙が少し汚れた真っ白なスケッチブック。
そして――赤間硯の工房で譲り受けた、あの深い紫の石肌から磨り下ろした、漆黒の墨汁を満たした小さな陶器の壺と、一本の面相筆だった。
木製ベンチに腰を下ろし、スケッチブックの新しいページを開く。
風がページをパタパタと捲る。
小春は右手を伸ばし、筆を握り締めた。
――静寂。
かつて液晶ペンを持った時に小春を襲った、あの激しい動悸も、手首の痙攣も、吐き気も……どこにもなかった。
指先は温かく、血が通い、身体の中心軸に、一本の揺るぎない鉄のレールが通っているような、絶対の安らぎがあった。
面相筆の穂先を、墨の壺へと浸す。
余分な墨を縁で軽く拭い、筆先を尖らせる。
頭の中に、これまでの旅の情景が、光の粒子となって溢れ出してきた。
仙崎の海に沈んだ、目に見えぬ無数の鰯たちの弔い。
板の下から見えない炎でじっくりと芯を鍛え上げた、純白の焼き抜き蒲鉾の弾力。
透き通る身の表面で、命の最後の脈動をチカチカと輝かせていた活イカの姿。
音信川の清らかなせせらぎと、川床テラスを渡る夜風。
滋味あふれる長州黒かしわの水炊きの、温かいスープ。
足湯の飛び石で、小説家・中原蓮が語ってくれた――「表現とは、傷ついた自分を抱きしめ、たった一人の誰かと手を繋ぐための祈りだ」という言葉。
千回磨り下ろされた赤間硯の、深遠な漆黒の光。
そして――二十六年の短い命の中で、世界中の小さな命に愛を注ぎ続けた、金子みすゞの遺稿ノートの文字――。
「……私は、描く」
小春の瞳に、澄み切った光が宿った。
「誰かに褒められるためじゃない。数字を稼ぐためでもない。……傷つき、暗闇で泣いている、過去の私自身を抱きしめるために。……そして、今、世界のどこかで同じように震えている、たった一人の誰かのために!」
――スッ……サササササッ!
筆先が、白い紙の上を滑った。
迷いは微塵もなかった。
紙の上に、一本のしなやかで力強い墨の線が走る。
赤間硯の墨が、和紙の繊維の奥深くへと吸い込まれ、吸い込まれた先から、光を放つように輪郭を広げていく。
描かれていくのは、一人の少女の姿。
傷だらけになり、膝を抱えて、暗い海の底に沈んでいる少女。
その少女の背中には、折れ曲がった黒い鉛筆の破片が刺さっている。
だが、少女は一人ではなかった。
少女の足元には、キラキラと銀色に輝く無数の小さな鰯たちが、群れをなして優しく寄り添い、少女の冷えた足を温めている。
頭上からは、天橋立の松風と、由良川の水鏡を抜けてきた、一筋の清らかな光が差し込んでいる。
そして――その少女の冷たい手を、両手でしっかりと包み込み、優しい笑顔で引き上げようとしている、セーラー風和装の鉄娘・みすずの姿。
みすずの手には、一冊の開かれた詩集。
そのページから、無数の金色のたんぽぽの花びらが舞い上がり、暗い海の底を、満天の星空のように照らし出していた。
――サッ……。
最後のひと払いを終えた瞬間、小春は静かに筆を置いた。
夕陽の最後の赤い光が、スケッチブックの絵を照らし出した。
墨の濃淡。
掠れ、滲み、漆黒と余白が織りなす、言葉を超えた世界の祈り。
そこには、かつてネットに投稿していたような、デジタルで綺麗に整えられただけのペラペラの記号など、どこにもなかった。
泥を啜り、血を流し、涙を拭って立ち上がった、白川小春という一人の人間の「生きた魂」が、紙の上で確かに呼吸していた。
「……できた」
小春の目から、温かい涙が一筋、紙の余白へと落ちて滲んだ。
だが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
生きている歓びの、新しい命の涙だった。
「……できたよ、みすずさん! 私……私のための絵が、描けた……!」
小春は立ち上がり、スケッチブックを胸に抱きしめて、夕陽の沈む日本海に向かって叫んだ。
ザザザザァァァ……!
黄波戸の夕波が、まるで万雷の拍手のように、高く、白く、渚に砕け散った。
みすずはセーラー和装の胸元の詩集を抱き、瞳に涙を湛えて、優しく微笑んでいた。
「ええ……本当に、美しい絵です。……あなたのその絵はね、百年の時を超えて、必ず誰かの暗闇を照らし続ける、不滅の灯火になりますよ」
海と空が、完全に夜の藍色へと溶け合っていく。
その黄昏の静寂の中で、一人の若き絵師の魂は、完全に生まれ変わったのだった。




