第190話:みすゞ通りの記念館、二十六年の命が遺した光
墨の香りを指先に宿した小春とみすずは、再び仙崎の町へと戻っていた。
仙崎駅から港へと続く、古い格子戸の町家が連なる一本の通り――『みすゞ通り』。
通りの中ほどに佇む、白壁と木造の風雅な商家『金子みすゞ記念館』の暖簾をくぐると、外の初夏の陽光とは対照的な、静謐で涼やかな空気が小春を迎え入れた。
そこは、金子みすゞが幼少期から少女時代を過ごした書店『金子文英堂』の跡地に建てられた記念館だった。
一階には当時の帳場や書棚が忠実に再現され、ギシギシと鳴る階段を上がった二階には、みすゞが読書に耽り、詩作に励んだ小さな四畳半の部屋が保存されていた。
「ここが……みすゞさんが暮らしていた部屋なのね……」
小春は息を殺して、小さな文机と障子の窓を見つめた。
展示室のガラスケースの中。
そこに、三冊の小さな手帳が静かに横たえられていた。
黒い表紙の大学ノート。
大正末期から昭和初期にかけて、みすゞが紫のインクで、几帳面に、一文字一文字丁寧に書き留めた――五百十二編の詩の自筆遺稿手帳だった。
「みすゞの人生はね、決して幸福なものではありませんでした」
みすずがガラスケースの傍らに寄り添い、静かに語り始めた。
「二十歳で詩作を始め、雑誌『童話』に投稿するや否や、西條八十に『若き童謡詩人の中の巨星』と激賞されました。……でも、彼女の私生活には、容赦のない悲劇が押し寄せたのです」
みすずの声が、切なく胸を締め付ける。
「親の決めた意に沿わない結婚。夫の放蕩と女性問題。そして、夫から『詩を書くことも、文通も一切禁じる』と命じられ、詩人としての命を奪われました。……さらに当時不治の病であった淋病を夫から移され、激しい痛みに苛まれながら、愛する一人娘・ふさえの親権すら奪われそうになったのです」
「そんな……そんな過酷な中で……」
小春は息を呑んだ。
「ええ。昭和五年三月十日。みすゞは、娘の親権を実の母に託すという遺書を残し、わずか二十六歳で自ら命を絶ちました。……死後、彼女の存在は完全に歴史の闇へと埋もれ、五十年以上もの間、誰一人として彼女の詩を顧みる人はいませんでした」
みすずは展示された遺稿ノートを指差した。
「でもね、小春さん。見てごらんなさい、この文字を。……誰からも評価されず、夫に筆を奪われ、病に体を蝕まれ、死の淵に立たされていたその瞬間すら、みすゞの手帳には、世界への呪いや恨み言など、ただの一行も書かれてはいませんでした」
小春は顔を近づけ、直筆のインクの文字を読んだ。
『――私が両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥は私のように、
地べたをはやくは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんなうたは知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。』
――『私と小鳥と鈴と』。
そして、もう一篇――。
『――青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。』
――『星とたんぽぽ』。
「……っ!」
小春の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、ガラスケースの表面を濡らした。
「みすゞさんはね、誰かに認めてもらうために詩を書いたのではありませんでした」
みすずが小春の背中を、優しく包み込む。
「お金のためでも、名声のためでも、大勢の拍手のためでもない。……世界の片隅で人知れず泣いている小さな鈴のために、泥にまみれたたんぽぽの根っこのために、そして、自分自身の傷ついた魂を救うために……ただひたすらに、純粋な愛の祈りを、この手帳に刻み続けたのです」
みすずは小春の目を見つめた。
「だからこそ、半世紀の時を超えて、詩人・矢崎節夫先生によってこの手帳が掘り起こされた時……みすゞの言の葉は、何百万人もの傷ついた人々の心を救う、不滅の光となったのです。……小春さん。あなたが描くべき絵も、同じではありませんか?」
「私の……描くべき絵……」
「そうです。SNSのタイムラインで消費され、数字を稼いで消えていく絵など、もう描かなくてよろしいのですよ。……傷つき、暗闇の中で震えている、たった一人の誰かの心に、百年の時を超えて寄り添い続ける……そんな『祈りの線』を、あなたの手で引くのです!」
記念館の中庭の緑の木々を、初夏の風が通り抜けた。
小春の胸の奥で、すべての迷いの霧が晴れ渡っていた。
自分は、もう一度描く。
流行のためでも、フォロワーのためでもない。
自分自身の魂を、そして、かつての自分のように暗闇で泣いている誰かを救うための絵を――!




